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World Community of Christian Meditation創設者ジョン・メイン神父著「Moment
of Christ」より こうしてグループとして一緒にいる時間の中で一番大切な部分は、みんなが沈黙して過ごす時間です。沈黙が瞑想の最上の準備です。瞑想をはじめる時は、しばらく完全にくつろぐ時間を持ちなさい。いすに座りたければ背もたれが直立した椅子に座りなさい。床に座るなら、ゆったりとした姿勢で座りなさい。そして瞑想の時間の間は可能な限り完全に静止するようにしなさい。始めたてのころは決して簡単なことではありませんが、瞑想は、精神の静止、肉体の静止へと至ることを含むものです。それは、一つなるものとしての、静止したものとしての、完全なるものとしての自分という意識を与えます。だから可能な限り静止した状態で座ることができるようにならなければなりません。座り、静止したら、眼を閉じ、そしてそれから、心の中で、静かに「マラナタ」という言葉を繰り返し唱え始めなさい。これは、「マントラ」とか「プレーヤー・フレーズ」(祈りの句)とか「プレーヤー・ワード」(祈りの言葉)とか呼ばれるものです。 瞑想の本質そして瞑想の極意は、単純に、瞑想の最初から最後までずっとその言葉を言い、唱え、響かせることができるようにすることです。それはまったく単純です――こんなふうに言うのです、「マ・ラ・ナ・タ」と。四つの同じ強さで発音される音節として。ほとんどの人は呼吸に合わせてこの言葉を言いますが、しかしそれは本質的なことではありません。エッセンスは、最初から最後までその言葉をいうこと、瞑想の時間の間中言い続けることです。スピードはかなり遅く、リズミカルに――「マ・ラ・ナ・タ」と唱えなければなりません。瞑想するためには、これだけ知っていればよいのです。一つの言葉を決め、その言葉を唱え、じっと静止したままでいる。 瞑想の目的は、各自が自分の中心に至ることです。多くの流派がこんな言い方をします。瞑想は行脚である――自分自身の中心、自分の心へ行脚し、そしてそこで覚醒した状態で、活力を漲らせて、じっと静止することだと。「religion」(宗教)という言葉は、「re-linking」(再結合)を、つまり自分自身の中心へ「再び結び付けられる」ことを意味します。瞑想の重要性は、自分自身の体験から、ただ一つの中心しか存在しないということに気づくことにあります。そして、また、人間の生涯の課題は、その唯一の中心を発見し、その中心から生きていくことによって、私たちの根源、意味を見つけ出すことだと気づくことにあるのです。 理解しなければならないのは、この中心へと戻ること、私たち自身の中心を発見することが、十全なる人間性を獲得すべきすべての人生の最初の課題であり最初の責任であるということだ、と私は思います。繰り返しますが、瞑想において、その鍛錬の中で、皆さんは、自分の体験から、自分自身の中心と一つになっているということは、すべての中心と一つになっていることだということを発見するでしょう。本当に霊的な人というのは、調和の中にいる人です。自分自身の中にある調和を発見し、そして創造との、神との、この調和を実際に生きている人なのです。私たちが瞑想において知ることは、自分自身の中心に入るということは神の中に入るということなのだ、ということです。これは、すべての東洋の宗教の偉大な教えでもありますが、それはキリスト教信仰の根源的な洞察でもあるのです。イエスの言葉で言えば、「神の国はあなたの中にあります。」そして、イエスの教えにおいては、神の国とは体験なのです。それは神の力の体験なのです。宇宙の大元のエネルギーの体験なのです。そして再びイエスのヴィジョンに戻れば、それによって生命に輝きながら人生を生きよと招いてくださっているこの大元の力は愛であるとわかります。キリスト者の体験とは、このレベルの現実の中で生きることができるようになることなのです。十字架上の聖ヨハネが、「私にはわかる、神が私の魂の中心なのだ」と言った時は、このことを言っていたのです。一人一人が、この言葉の正しさを自分の体験から発見するように招かれているのです。その招きは、その中心で、エネルギーと力の両方を発見し、そして沈黙の中で、静止した状態で、その力の中に、理知を超えた平安を発見しなさいということなのです。 このことを語るためにいくつかの言葉を使わなければなりません。「啓発」とか「活性化」などといった言葉を使います。しかしそれらは、体験されなければ分からないことを表現するために用いられる述語なのです。祈りの、深い瞑想の体験の不思議は、神の力の体験の中で、現実(リアリティー)に――あらゆるところに存在している一つの現実に目覚めていくことにあります。そしてその現実は外からでは知ることができないということがわかりますが、これは、神の外には一切現実が存在しないという実に単純な理由からなのです。それが内側に入り込まなければならない理由なのです。幻影の世界を離れ、そして現実の世界に入らなければなりません。瞑想の中で解き放たれるエネルギーは、なにか外に存する力から解き放たれたり受け取られたりするエネルギーではありません。それは、全関心を自分を超えて「他者」へと向ける時に成就し、現実のものとなる一人ひとりが持っている生命の力そのものなのです。これが超越の体験なのです。これが人間一人ひとりをその人自身の存在という賜物の中へと全的に運び込んでくれる霊の拡がりなのです。 瞑想の中で発見しなければならないのは、私たちが在るということ、生きているということ、実存しているということ、そして現実の中に根ざしているということです。祈りや瞑想について語ったり、神について語ったりすることは、ただ一つの目的にかなうことです――それは何か新しいことを教えることではなく、現にあるもの、現実であるもの、真実なるものを明らかにすることです。瞑想するために座る、静止するために座ろうとすれば、素朴さをもっていなければなりません。子供のようになる必要があります。私たちの内部にある平安は人知を超えるものであることを理解しなければなりません。その体験の中に丸ごと入り込むよう招かれているのです。瞑想とは、私たち自身の絶え間ない創造という賜物を完全に受け容れることであると言えるかもしれません。 しかし、何よりも言葉に酔うことに気をつけなければなりません。最後に、私たちを素朴さへ、沈黙へ、覚醒状態へ、そして、自分を後にし、様々な思いを後にし、想像や考えを後にすることである超越へと導いてくれるプロセスをもう一度言わせてください。その方法はマントラの、あの言葉の道です。座る時は、身動きせずに楽な姿勢で座りなさい、そして自分の言葉を唱え始めなさい。そしてそれを最初から最後まで言い続けるのです――「マ・ラ・ナ・タ」と。 聖パウロはコリント人たちに次のように書きました。 「闇から光が輝き出でよ」と命じられた神は、私たちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」(2コリ、4:6) この光の力は私たち自身の心の中に、私たち一人ひとりの中に、見つけ出すことができます。一人ひとりができるようにならなければならないことは、その力に自分を開き、その力から人生を生き抜くことです。皆さんに提案します。皆さんの生活を、毎朝そして毎晩の一時を中心に組替え、そして、静止し、沈黙し、謙虚になり、神の中にいるようにしてみませんか。(注:「マラナタ」は新約聖書最後の言葉で「主イエスよ来たれ」あるいは「主イエスはここにいます」という意味です。) |