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私は本業は高校の英語教師ですが、副業として翻訳もしています。中学生の頃から英語大好き少年、青年、中年を経て今、初老の域に達しつつありますので、最近ではまるで意味のわからない単語というのにはあまり出会わなくなりましたが、それでも辞書はよくひきます。まれにではありますが、自分ではよく知っているつもりの単語に限って、いつの間にか本来の意味とは異なる意味だと思い込んでいることがあるし、また、その英語の意味をどういう日本語に置き換えるのが一番適確なのか、頭で考えているより辞書をひく方が手っ取り早いことがあるからです。すると、外国語である英語の場合はある意味あたりまえのことですが、母国語の国語辞典を開いてみても、どのページにも全く初めてという単語がたくさんあって本当に驚きます。また、普段使っている単語でも、辞書には、まるで知らなかった意味が載っていることもよくあります。
私達の日常の言葉がそうであるならば、信仰の言葉、特に私達の信仰の中心であるイエスについては、もっとそう言えるのではないでしょうか。いや、場合によっては、自分に都合のよい意味を勝手に与え、思い込みの世界の中で自分自身をも欺いているということはないでしょうか。
私達は、国語の語彙のほんの一部を使っているに過ぎません。日常の生活では高々100にも満たない単語しか使っていません。職場や遊びの世界でも、私達は自分の世界に特化したボキャビュラリーを身に付けていきます。
信仰についても同じことが言えます。私達は専門化された領域に住み、信仰の方言を話しています。そしてちょうど東京の人々が自分達の言葉はそのまま「標準語」だと思い込んでいるように、それぞれの方言こそが「標準語」だと思い込んでいくのです。
私は、ヤドカリ教会を自任する教会にヤドカリする正真正銘のヤドカリ信徒ですから、比較的自由に色々な教会、集会に顔を出しています。朝、旅先で日本基督教団の静かな礼拝に出席させていただき、夕刻京都に帰りつくや、ペンテコステ派の中央チャペルの夕拝に出て手をたたき足を踏み鳴らしてゴスペルを歌い、その後カトリックの瞑想会に出席したということもあります。
色々な礼拝、信仰のスタイルがあります。ただただ激しく主の名を呼びつづける人々、手を打ち鳴らし、体を揺らしながらゴスペルを熱唱する人々、聖書を読誦し、静かに思索し聖句の分かち合いをする人々、病める人に按手をし、肉体のそして心の苦しみからの救いを祈り求める人々、ただただ無言の内に、ひたすら神と一つであろうと祈りつづける人々、実に様々な群れに出会い、共に祈る経験をさせていただいてきました。
どの群れにいっても、ただ一つの心がはっきりと感じ取られます。皆、イエス・キリストに対する同じ信仰を共有しているのです。福音派、瞑想的グループ、ペンテコステ派、カトリック、皆それぞれの方言でイエス・キリストの名を呼びつづけているのです。その様子は、プリズムを通った光が互いに連続しあう無数の色彩へと分かれていく、さながら聖霊のスペクトラムのようです。
分かたれた色彩のどれ一つとして単体では元の光になりえないように、私達の話す信仰の方言も、どれか一つだけが「標準語」たり得るはずもありません。それぞれが波長の異なる光の帯であり、その全てが合わさってキリストの体となるはずのものだと私は思うのです。
いくつもの光の帯に分かたれてしまった私達が一つのキリストの体となるためには、私達一人一人の中に差し込んでいる一筋の光、すなわち聖霊をたどって、私達を分断している「自分」というプリズムを超えて、今一度完全な光へと立ち返る必要がある。そのために私に出来るただ一つのこと、祈り。
2001年は、そんな祈りの中で3つの教派に属する3つの教会と一つのグループ、都合4つのホームページの立ち上げに関与させていただくことが出来ました。2002年は、「聖霊のスペクトラム」と題するホームページを立ち上げる中で、この祈りをさらに深めていきたいと思っています。
その手始めに、私が置かれている教会、宗教法人京都福音教会の歩みをたどって見ました。
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