京都福音教会の黎明期 by 平田師

京都福音教会の歩み

証言by平田きぬ牧師(前宇治福音教会牧師、前京都福音教会主任牧師)

以下は、Mog-Urが2001年11月18日午後2時〜7時頃まで、京都福音教会牧師室でインタビューした時の録音を文字に直したものから、個人のプライバシーにかかわる部分を削除したものである。テープが切れてしまった最後の2節、「抱負」と「中央チャペルへのメッセージ」は手書きのメモに基づいているが、それ以外は、録音テープに忠実に採録してある。

「京都福音教会のはじまり」
私が教会いきはじめたんは昭和27,8年のころのことで、それも生駒の系列の教会だったんですわ。名前は、京都救霊会館ゆうてね。今でも名前は変わってますけどね、新大宮通のね、今宮通りから一筋上がった所を東に入ったところにあります。それが日本ペンテコステ教団の生駒の会館ですね。

 私も藤林先生も、共に京都救霊会館に導かれたんです。だからここ(本部教会)宇治の教会も生駒の流れを汲んでいるのです。

 私も藤林先生も、後に国際UPCという教団へ入りましたけどね、なんといいますかね、そのぉ、体質みたいなものがね、救われた時の教会の体質の影響が強いんですよ。

 で、途中から、トムソン先生がUPCに入られたので、ま、自動的みたいにUPCに入ったんですよ。私も藤林先生も。

Mog-Ur:あ、そうだったんですか。でも先生、いきなりそこへ行っちゃわないで、トムソン先生の記憶も相当ボケてきてまして、私自身が色々混乱してる所があるので、ちょっと順番にお話をうかがいたいんですが、藤林先生と平田先生が最初に出会ったのは、この京都救霊会館のことだったんですね?それは何年頃の話ですか。

初めて教会いったんが、昭和28年だと思います。でね藤林先生は、その翌年だったんですよ。昭和29年だったと思います。当時藤林先生は、私より9際しただから19歳くらいだったと思います。

 で、結核で長年悪かったそうですから、そのために非常に賢い人でしたけど、学校いけなかったんですよ。新制中学の途中で、吐血してね、学校通えなくなったけど、義務教育だから卒業はできますわね。でもその上の学校なんて病気でいけなかったんですよ。

 それで18,9の時に、救霊会館にワイン先生と言う宣教師の先生がいて、牧師として日本人の若い名塚先生がおられた。この人も生駒の卒業した人やったんですけど、その先生が一生懸命戸別訪問してね、その中の一軒が藤林先生の家やったんですわ。新町通りの東に入ったところでしたね。

 その家に入ってったら、邦夫先生のおばあさんがおられた。で、おばあさんにお話をしていたら、2階で寝ておられた藤林先生が、押し売りでも来たかと思って降りてきた、そしたら名塚先生がおばあさんとお話をしておられた、それでおばあさんに引き続いて福音を聞かれたんですね。

 それでおばあさんが信じて、おばあさんは救霊会館に来られたんです。

 そして邦夫先生も信じたんですね。

 邦夫先生は、当時よろよろでしたけどね、新町から大宮まで歩くのが大変やったそうです。それを歩いて行こうとした。半分くらいまで行った所で、とてもしんどくなったそうです。体力ないから。

 それで行こうか戻ろうか考えたんだそうですけど、半分来てるから、行っても同じ返っても同じ、それなら行こう、言って教会にたどり着いたんだ、とよく証しておられました。

 それでそれから、そのワイン先生というのがね、小さな聖書学校を作られたんですわ。28年に信じてね、29年には、ワイン先生が聖書学校作るから入れってね。

 そんなこと言われても、そんな学校みたいなものは、若い人が行くとこだと思ってましたのでね、「先生、私みたいなもん年いっててあきませんよ」って笑ってたんですけどね、何べんもね願書出せって言われるんですよね。

 何もないんですよ、まだ学校って言っても。

 その時、その宣教師のワイン先生の家族はね、金閣寺前に大きな屋敷を借りて、そこに住んでたんですわ。進駐軍が接収してた大きな家があったんですけど、日本が独立するということで、そういう大きな家が返された時だったんですね。それを宣教師が皆借りていましたわ。

 トムソン先生も後に、北山通りに、やはり進駐軍が借りてた大きな屋敷を借りましてね、そこでこの教会が始めましたからね

 ワイン先生もね、大きな家も住んではったんですね。借りて。そこの一角を聖書学校としたんですね。

 で、それでね、最初は救霊会館でね、一緒にやってたんです。ところが、クート先生というのがね、立派な方やったけど、すごいワンマンやった見たいなんですよ。

 それで、宣教師をたくさん日本に連れてきたんだけど、みんなね、ついていけなくなって、みんなやめたんですよ。トムソン先生もその一人だったんですけど。

 そのワイン先生も、クート先生に付いて行けんということになって、クート先生から離れたんです。そしたら、もう救霊会館は使ったらあかんということになって、それで、金閣寺の前にあった大きな家が、半分洋館で半分和風の家だったんです。

その和風の家の方を使って、救霊会館に集ってた人たちをそっちへもってったんです。

そこで集会を始めたんです。

 救霊会館の方は、生駒の方が、日本ペンテコステ教団の方が来て、牧会されるようになったんです。

その金閣寺のところの家に、ワイン先生が聖書学校を作るから入れ、入れいうてね、で入った後に、救霊会館を使えんくなったんです。聖書学校から救霊会館に通ってたのを覚えてますからね。

 その借家で聖書学校をしてるでしょう。で、こちらの洋館に家族が住んでおられたんです。で、こちらの和風の下とか2階、そして洋館の方の2階も女子の寄宿舎にしたりね、そしてこちらの和風の家の2階は男子の寄宿舎にしたり、で下の部屋を教室みたいにしてやってましたね。

 で、私らが入った時には蔵がありましてね、その蔵今でも残ってんですよ、通ると。あれも何で残ってんのか知りませんけどね。そこの角に料理屋があってね、その料理屋の蔵なのかな、そうじゃないすわね、やっぱりね、蔵はね、そこの麓鹿さんちゅう造り酒屋さんの敷地にありましたからね、そこが寄宿舎やってね、私いましたよね、そこに。しばらく。

Mog-Ur:あ、そうなんですか。同じ京都市内でありながら、わざわざ寮に入ったんですか。

そうなんですよ。ほんでね、親はね、「んもうなんでそんなとこ行く」とかね、「尼にでもなるんか」とかね、色々うどうど言われたけどね、、、

 最初笑い事にしてたんですよ。

 先生、私なんか年いってて駄目ですよ、って言ってたんですけどね。

 でも段々と私にねぇ、あってるというか、祈っていると、やっぱりこれが私の道だという確信がわいてきてね、

 で、父なんかはね、何でそんなとこ行く、言うてね。で、名塚先生の所へ聞きに行ってね。心配でかなわんゆうてね。

 ところが、帰ってきて、ぷんぷん怒っててね。ほいで、あのぉ、

あんなんいってもわからん。なんでもね、ききたいところに来ると、それは神様がしてくださいます、というだけで、あんなの答ならへんってね、それでねぷんぷん怒って帰ってきたの覚えてますね。

それでね、とにかくね、反対反対されてたんだけど、最終的に、そんなに行きたいんだったら行けばええ、ということでね、入ったんですよ。そしたらね、その時ね、キリスト教新聞かなんかで募集してね、色々な教派の人がね来たんですよ。後は全部男の人でしたけどね、六七人いたと思いますね。ところが、ぜんぜん違う教派の人でしょ。ペンテコステの教派のところやて知らなかったんですね。で、来て一週間たったらみんな帰ってしまったんですよ。一人だけ学生がね、ルーテル派の人やったけど残ってね、いましたけどね、その人も一学期の終わりになったら、「帰る」って帰ってしまったんですよ。それで私一人きりになってしまったんですよ。それでその蔵の中に一人でいたんです。その蔵にいた時に、聖書学校の一年目の一学期に、その辺でね、藤林先生は、家庭訪問で救われなすったんですよ。

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