京都福音教会の最初の一歩

宗教法人京都福音教会(京都中央チャペルは他の4つの教会と並んでこの宗教法人に属する「枝教会」である)の第一歩は、今更いうまでもなく京都は下鴨前萩町での集会であった。しかし、「京都福音教会」という呼称そのものの起源はもう少し前にまでさかのぼる。ここでは、この黎明期の京都福音教会について語る。情報源は、京都福音教会、宇治福音教会元牧師の平田姉、京都福音教会創設者故藤林邦夫牧師を信仰へと導いた名塚宏次兄(元救霊会館牧師、最初の「京都福音教会」牧師)、クロード・トムソン兄(元宣教師)、堀田孝雄兄(札幌牧師)、ウイリアム貫田兄他である。

宣教師ソーントン兄とレナード・クート兄

レナード・クートといえば、生駒聖書学院を創設した「宣教師」としてあまりにも有名であるが、そのクートが京都福音教会の最初の一歩に大きなかかわりをもっているということは、あまり知られていない。しかし、事実として、宗教法人京都福音教会初代牧師藤林邦夫も2代目主任牧師平田きぬも、ともにクートが京都に開設した京都救霊会館で信仰に導かれている。

ある意味当然のことではあるが、その京都救霊会館で当時牧師をしていた名塚宏次は、生駒のIBCを卒業したクートの直弟子であるし、また藤林邦夫や平田きぬが学んだ純心聖書学院創設者ビクター・ワインは、クートがアメリカ、テキサス州サンアントニオ市に設立した聖書学校IBC(International Bible College)の卒業生である。

だから、藤林邦夫、平田きぬの二人はともにクートの孫弟子にあたることになる。

さらに宗教法人京都福音教会創設功労者の双璧の一つを占める宣教師クロード・トムソンは、サンアントニオのIBCでビクター・ワインの一期先輩にあたり、もともとアフリカ宣教の夢を抱いていたのだが、サンアントニオのIBCでクートの強い感化を受け、日本宣教の重荷を負った人物であった。

したがって京都福音教会の歩みの最初の一歩は、レナード・クートなる人物の影の中で踏み出されたということもできよう。

それは、ある意味、本当の影であった。

現生駒聖書学院学院長栄義之の話によれば、生駒IBCは、教義的には三位一体ということだが、しかしなぜか洗礼だけは、「主イエスの御名によって」なされているという。

この筆者は、神学にはまったく暗く、洗礼が「主イエスの御名」によってなされていることがワンネスと三位一体の違いを象徴的に外形的に表す基準だ程度に理解していたので、この話を聞いた時は、頭の中は??????で埋め尽くされたのだが、そこは素人の強み、「へぇそうなんだ」と合点して先に進むこともできる。しかし、世の中には、父と子と聖霊の御名による洗礼を受けた人が、それは本当の洗礼ではなかったと、改めて「主イエスの御名」による洗礼を受けたり、またその逆のケースがあったりということを見聞きすると、実はこのあたり、もう少しきちんとしておくべきだという気になる。

しかし、レナード・クートはそこにはまるでこだわりを持たなかったようだ。

クートはもともと石鹸のセールスマンとして(生駒聖書学院再開後2期生堀田孝雄情報、ただし自伝では石鹸会社社長秘書としてとある)1913年に日本に来日し、ソーントン宣教師の家の2階に下宿しているうちに回心を経験し、伝道者としての歩みをはじめた人であり、しっかりとした神学的トレーニングを受けたことはない人であった(堀田によれば、クートはアメリカ時代に使徒2章で神学博士号を取得しているが、そのときにはすでにサンアントニオのIBCを創設しているから、訓練を受ける側ではなく施す側の人間であった)。

そのためかどうか、太平洋戦争をはさんで、彼の神観は三位一体とワンネスの間を行ったり来たりしているように見える。それもかなりご都合主義的に。

クートがサンアントニオに創設したIBC(インタナショナル・バイブル・カレッジ)は1945年にUPCIが結成されるや、UPCIの認可を取り付け、クート自身もUPCIの教職者としての認定を受ける(貫田)。しかし、戦前のクートがワンネスであったのか、それともトリニティであったのかは今の時点ではわからない。ただ、故郷イギリスを離れるときにはメソディスト教会の日曜学校の教師もしていたくらいだからトリニティであったことは間違いない。

神戸時代もソーントン宣教師の家の2階に下宿し、パゲット・ウイルクスやバークレー・バクストンなどの強い影響を受けていた(Impossibilities BecomeChallenges [以下IBC]p.8)り、また、彼自身が、神戸の日本バプテスト教会で浸礼を受けなおしたりしているところを見ると、この時期はいわゆる伝統的な神観の中にいたのだろう。

そんなクートにワンネスとの接点をもたらした人物は、おそらくグレー夫妻だ。グレー夫妻は、クートが会社務めを辞め、横浜での伝道に入っていくきっかけを作った人々だ。当時茨城で伝道していた夫妻は、帰国した宣教師の依頼を受け横浜の群れも預かっていたが、グレー夫人が体調を崩していたため横浜の集会に出かけることができずにいた。それを受けてクートは横浜に出かけることになったのだが、この当時のグレー夫妻は、まだ聖霊のバプテスマを受けていなかったというから、おそらく彼らの神観も伝統的なトリニティであったと思われる。(IBC8章) 

しかし、貫田によると、このグレー夫妻の息子のデービッド・グレーなる人物は、1945年時点で、サンディエゴのUPCI系の教会の牧師をしていたということなので、クートがワンネスになるのは、太平洋戦争勃発前に、宣教師追放令よりも前に、自分の意志で日本を離れて以降のことであろうと思われる。 

いずれにせよ、クートは1945年にUPCIが結成されると、サンアントニオのIBCをUPCI認可校にしてもらい、全米各地のワンネス神観の教会からの献身者を受け容れるようになった(貫田)。 

後に日本に宣教の情熱を燃やす多くの人々がサンアントニオのIBCで学ぶが、私達の教会に深いかかわりを持つ、クロード・トムソン、ウイリアム・じゅん・ヌキタ(日系二世)、ビクター・ワインなどは皆このサンアントニオIBCの卒業生であり、皆ワンネス系の教会の出身者であった(名塚、堀田、貫田、トムソン)。 

そして、クートが戦後初めて日本に帰ってきた時(1948年)は、UPCIの宣教師という肩書きで帰ってきている(堀田、貫田、トムソン)。 

しかしクートは、1950年、生駒の聖書学院を再開し、自分の聖書学校に君臨し始めると、UPCIを離脱し、日本ペンテコステ教団を再結成する。現生駒聖書学院長栄義之によれば、この教団は、洗礼こそ「主イエスの御名」によって施すが、教義的には三位一体である。(いくら読み直しても????) 

クートの祈り方

クートはいつも「天の父なる神様よ〜っ!」と呼びかけて祈っていたそうだ。これなどは、戦前にアメリカに渡り、後のUPCI系列の教会で救われ、帰国後クートに重用された村田繁人が、いつも「主イエス様よー」と呼びかけていたのと好対照と言えよう(堀田)。 

生駒再開2期生の堀田は、クートを評して、「トリニティの中のワンネス」と呼び、クートの教え子で最初に日本にやってきた貫田は「He was compromised.」と言っているが、あるいは、「イエス様のセールスマン」をもって自任し、「イエス様を伝える」をモットーとし、実践したクートからすれば、ワンネス、トリニティの異なりなどどうでもよいことであったのかもしれない。

少し意地の悪い見方をする人の中には、ワンネスともトリニティともつかないクートのあり方を、世界中のプロテスタントから資金的援助を受けるための方便だったという人すらいる。 

クートを知る人々が口をそろえて言うことが二つある。

一つは、彼はどうしようもなくワンマンであった。

色々な人の話を総合すると、彼は人間界においては、自分以外に一切の権威を認めていなかったのでは、と思えてくる。宣教師であれ、神学生であれ、自分以外の者はすべて将棋の駒のように、自分の意のままに動いてくれる味方か、さもなければ敵か、そこまで徹底していたかどうかはともかく、戦後生駒を再開した後は、何十人という宣教師たちが彼を頼って来日するが、結局彼の下に最後まで留まった者は非常に少なかったという。

実際、京都福音教会創設の最大の功労者の一人クロード・トムソンも、あるいは、藤林邦夫、平田きぬの学んだ聖書学校創設者ビクター・ワインもほぼ時を同じくしてクートとの関係を断っている。これなどは、両者ともにもともとUPCであったというから、クートがUPCを離脱したこととも何か関係があったかもしれないが、それ以上にクートのワンマンについていけなかったという見方をするものがほとんどである。

学生にしても、同じである。再開一期生は20名近くいたらしいが、無事3年間の過程を終えて卒業したものはわずかに6名、そのうち、クートの下で日本ペンテコステ教団に留まった者はわずかに一名であった(名塚)。

クートについてみなが口をそろえるもう一つの言葉、それは、彼が伝道にかける情熱は非常に激しいものであったということである。

 みながみな、そのことは確かに認めている。しかし、この点について能弁に物語ってくれる人は一人もいなかった。みな、彼がいかにワンマンであったか、そのことについては延々と語りつづけてくれる。そして最後に、付け足しのように、「でもあの人の伝道にかける思いは本物であった」と言うのである。

 いずれにせよ、京都福音教会の最初の一歩は、このワンネスのようでワンネスでなく、トリニティのようでトリニティでない、なんともあいまいな神観の影で踏み出されたのである。

目次  Victor Wine

2002/1/22
Mog-Ur