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クートと村井じゅん

クートが戦後生駒聖書学院を再開した時、もっとも多くの献身者を送り込んでくれたのが、村井じゅんのイエスの御霊教会であった(堀田、貫田、名塚情報)

少し長くなるが、村井じゅんについて主イエス栄光教会牧師堀田孝雄が語ってくれたところを整理しておく。なお( ]内の人名は、堀田以外にその情報を確認してくれた人の名前である。

沖縄のヨミタン村で熱血的な伝道者として名を馳せた村井競の次男。青山学院で神学を学び、クートにも非常に強い影響を与えた宣教師ソーントンを慕い、兄村井一と共に、丹波の日本自立聖書義塾に学ぶ。兄の一は、後にこの聖書学校で教鞭をとり、村井じゅん自身は「伝道部長」としてソーントンの下で活躍したという(この項は、まだ確認がとれていないので要チェック)。大正時代にすでにクートと接点あり。聖霊のバプテスマを受ける(大正7年)が、最初それはあくまでも個人的な体験と考えていた。しかし、昭和6年〜7年頃アッセンブリー教団の長島ツルと出会い、異言体験の意味を教えられ、同時に当時無牧状態の西巣鴨のアッセンブリーの教会の牧師に就任。昭和16年、日本基督教団に入るか、カトリックに入るかの選択を迫られた時、そのいずれも拒否し、「イエスの御霊教会」として独自の教団を結成。同年、当時台湾にあったペンテコステ系ワンネスの「新耶蘇教会」の招きで台湾へ、上井乙熊(当時小浜教会(現大阪中央教会)牧師)と共に「イエスの御名」により洗礼を受けなおす。昭和20年3月の大空襲で教会が焼けた後、高円寺周辺を転々とし、戦後昭和23年に荻窪に教会を作る。
 戦前生駒で教鞭をとったこともある米人宣教師グレーは、日本で自分が宣教するよりも、日本人に資金援助をして伝導させたほうが効果的であるとして、神戸の佐藤英彦らに資金援助をしていたが、このグレーは、帰米後UPCに入っていた。それを知らなかった佐藤英彦が、村井じゅんはワンネスだから、資金援助はすべきではないという手紙をグレーに書き送ったことで、UPCは日本にもワンネスの群れがいることを知り、接触をはじめる。(ここまで堀田)

 昭和23年、UPC代表として来日したウイリアム貫田は、真っ先に村井を訪ねていき、しばらくは組織的にもかなり親密な関係になる。同じ昭和23年、貫田とは別に飛行機で来日したクートは、村井を訪ね、生駒再開に際し献身者の送り込みを依頼。2年後の25年、いよいよ生駒再開の時には村井は12名ほどの献身者を生駒に送った。
 しかし、クートと村井との間に聖霊のバプテスマの位置付けをめぐる教義的対立がおこり、開設後2年目の夏には、クートは、村井の送り込んだ神学生の中で、村井の影響を捨てないものをパージしてしまう。村井が独自の神学校を作ったのは、このパージされた学生達を救うためであった。(堀田、貫田、名塚)