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名塚師のお話

名塚師には、2002年1月10日と11日、そして16日の三度に分けてお話を伺った。

1月10日のお話の概要

金閣寺時代について

もう40年以上の前の話であり忘れていることが多いが、金閣寺前にいた頃の教会の名前は、平田先生の言っていることで間違いないと思う。

ワイン先生とクート先生の関係がなくなった後、救霊会館はクート先生にお返しして、当時ワイン先生が借りていた大きな屋敷に集会場所を移しました。その家は、戦後進駐軍が接収して将校クラブとして使用していたもので、洋風の家と和風の家がありました。ワインさんは、その洋風の家を自宅として使い、和風の家を教会にしました。和風といっても進駐軍が畳などを取り除き、板張りの床にしていたので中は洋風でした。それまで京都救霊会館に集っていた40名〜50名の人たちがみなこちらに移ってきました。もちろん、その全員が毎回集会に出席していたわけではなく、毎回の集会には大体30名前後の出席であったと思います。

集会は、普通の集会と同じ順番で進みました。最初に1曲〜2曲賛美をし、信徒がはじめの祈りをし、それからさらに何曲か賛美をした後、聖書講解、献金、交わりという感じでした。祝祷はありませんでした。というのも外人宣教師はほとんど祝祷をしませんでしたから。

私ははっきりとワンネスでした。世界各地のプロテスタントから献金を集めるためにあまり旗色を鮮明にしなかったクート師などとは違って、何も隠す必要はありませんでしたから。

当時、ワインさんは聖書学院をはじめていて、移ってまもなくすると、どちらかというと聖書学院に比重を置くようになったんです。それで献身者の若い兄弟や姉妹が盛りたてて集会をしていきました。

生駒聖書学院について

私は東京生まれで、荻窪の村井じゅん先生のイエスの御霊教会にいました。同じペンテコステということで、クートさんは生駒を再開するときに献身者を送ってくれと村井先生に依頼したのですね。それで村井先生は10人以上の献身者を募って生駒に送りました。しかしクート先生は大変個性が強かった。もう強圧的という方がよいくらいに個性が強く、生徒もあまりいつかなかったですね。とにかく出たり入ったりが多かったです。私がいた3年間で入学者は数十名、卒業者は多くはなかったですね。私たち1期では結局6名しか卒業者はいない。そしてそのまま生駒の群れに留まって伝道に従事した者は一名しかいなかったです。

生駒が再開した後、村井先生は独自に神学校を作ったんですが、それは、せっかく募って送り出した献身者たちがどんどん生駒を辞めて戻ってくるもんだから、彼らのために学校を作ったという面もあったと思います。私は、結局最後まで生駒にいたんですが、それもあって、結局村井先生の教会とは疎遠になりました。一度だけ、東京に帰った時に村井先生の神学校を訪ねたのですが、神学生の中に生駒時代の学生が多くいました。

1月16日のお話の概要

生駒聖書学院の2年目の夏に生駒でペンテコステ系の聖会が開かれました。私は、当時イエスの御霊系の学生達とはいつの間にか少し距離ができていたものですからよく事情はわからないのですが、この聖会を機に東京からきた学生達の間で、東京に帰るか、このまま残るかという話が出ていましたね。

貫田師のお話から補足

村井さんところは、聖霊のバプテスマを受け、異言を語るようになったら救われる、ならなければ救われないという考えであるということが、この頃ようやくUPCIにもわかり、それでクート兄は、学生に教義的にいずれをとるのか選択を迫ったんですね。名塚師は、ワインさんに見込まれて、大変かわいがられていたし、結局生駒に最後まで残ることを選択しましたね。だから村井のグループとは切れた数少ない人の一人だったですね。

堀田師のお話

26年の夏頃、突然真夜中にクート先生が神学生を全員講堂に集め、「アマレクがいる。今後は方言(異言を元訳聖書では方言と書いている)で祈ってはならないと言ったことがあるんです。これなどは、学生に自分をとるか、村井先生をとるかの選択を迫ってたんですよね。」

イエスの御霊教会

この教会についての堀田師のお話をこちらに整理してあるので参照してください。

再び名塚師のお話

いや、当時の私はまだ18歳くらいで大変若かったので、あまりそういう教義的なことは考えていませんでした。ただ、私はせっかくはじめた学業を半ばで打ち捨てることはしたくなかったということが一番強かったんです。ま、それに、当時の神学生はみなかなり年がいってましたのでね、2年目の夏頃でも、一番若いのが金井先生で、2番目が私だったんですね。だから、なんか置き去りにされたような感じをもっていましたね。

貫田師の話から補足

名塚師は、ワイン先生にかわいがられて、伝道にも一生懸命だったから、村井グループから敬遠されていたんじゃないのか。

1月11日のお話の概要

京都救霊会館の牧師になった経緯

生駒卒業に際し、クートさんのあり方に私は大変大きな疑問を抱いており、一度東京に帰ってオープン・バイブル系の教会に集っていました。

当時の生駒の学生は、戦争中、そして戦後再開までの5年間放置されていた生駒の建物などを修理する作業などをして、それを日当計算して学費や食費に当てることになっていました。しかし私は、長宗我部という学生と共にワイン師が当時担当していた教会の伝道活動を手伝えといわれていたので、週末はもっぱらこの教会で布教活動をしていたんです。当然、学院での土方作業の方の日当は、土日学院に残って作業をしている者達よりも少なくなります。いよいよ卒業という時になったら、クートさんは、日当の帳簿を取り出して、私にその差額を支払うか、その差額分作業をするかしなければ卒業証書は出さないと言うんです。その金額たるや、今の価値観で言えば大したことではありませんが、当時の日当で換算すると10日やそこら働いてもとても間に合わない金額でしたね。結局、その金は家の方から送ってもらって支払ったんですが、大変疑問に思いましたね。私は言われた通り一生懸命伝道活動に従事したのに、いや、他の学生達よりももっと熱心だったと自負もしている、それなのに、労働時間が足らないといわれたんですから。

そんなことがあって、卒業後私は東京に帰っていたのですが、私はもともとワンネスの出ですから、東京の教会の中に一人駒込の神学校に通う者がいたのですが、その人からトリニティの教会にワンネスがいるといって糾弾されるようになってしまったんですね。それでいづらくなってきた。そんな頃に、軽井沢で夏の聖会が開かれた。で、そこに出かけてみると、ワインさんが来ていて、私はワインさんの信頼は厚かったですから、ワインさんの方からやってきて、実は今京都の救霊会館を任されているが、日本人の牧師が必要だ。ぜひ君に来てもらいたいというので、それじゃ、ということになったのです。

25年の4月に生駒に入学し、28年の3月に卒業しました。そしてその年の夏まで東京にいましたので、京都に来たのは28年の8月ということになりますね。

純心聖書学院の犬山移転

当時犬山にいたウオレスという宣教師が日本人の協力者を探していたので、生駒で一緒だった(一期下?)金井先生を紹介したんです。金井先生は当時生駒を卒業していながら浦和の養護施設に勤めていたので、それはもったいないと思っていた。それでウオレスさんに紹介したんです。

 そのウオレスさんがカナダに帰るということになって、教会と溢愛館という養護施設を預けていく人が必要になった。昭和31年のことだったと思います。

当時私は京都にいたのですが、最後の方はワイン師についていけなくなっていたのですね。ワインさんは、結局伝道面でけつを割ったとまでは言いませんけれど、私は宣教師に対する疑問が出てきました。

ワイン師は女性に甘すぎた。生駒時代から一人の信徒を秘書のように使っていたのですが、どうも親しくなりすぎていたのですね。ま、私はそのために躓くということはなかったですが、女性信徒のなかにはそのために教会を去るということもありました。

 ワインさんの奥さんが大変勝気な人で、うまくいってなかったのです。

 ワインさんの両親も日本に来て伝道活動もしていたのですが、奥さんとうまくいかなかったですね。

 で、このご両親も、ワインさんと一緒に犬山に行くべしであったのですが、結局ご両親は犬山じゃなく宇治の方にいって、そこで伝道活動をしていました。私は、ワインさんたちが犬山に移った時に大津の友人を頼って大津にいったのですが、そこからこのワインさんのご両親の伝道活動を手伝いに行きました。

ワイン師との別れ

最後は口論になりました。ちょうどご両親もいる前で、激しくやりあいましたが、ご両親からは悪感情はもたれませんでしたね。ワインご夫妻に問題はありました。それで、私は京都を離れ、大津の友人を頼って大津に移ったのです。

金閣寺の信者達

大変申し訳なかった。慙愧に耐えない。しかし引き受けてはできなかった。ワインさんも、誰かに後を託すということはなかった。結局ほったらかしの状態でした。吉田に安田兄がいたので、家庭集会などをしていたのではないかと思います。

ワイン師

すべてが中途半端だったですね。ウオレス師から委ねられた伝道も、期待した成果があげられなかったし、神学校も中途半端だった。ウオレス師がカナダから帰ってきた時、結局二人の間には大きな溝ができてしまい、ワイン師は犬山からも去ったようですね。

現在の名塚師

無教会主義の集会に出ています。

京都中央チャペルへのメッセージ

捨て身でもって、自らをキリストのために投げ打って、京都の伝道、日本の伝道のために命を捧げられた藤林邦夫先生、その信仰を受け継ぎ、日本のリバイバルのために前進してください。