トップ トムソンその2
京都福音教会の歩み
クロード・トムソン師のインタビューその1
生駒聖書学院とインターナショナル・バイブル・カレッジ
エマニュエル・チャーチ、リバイバル・テンプル、デスティニー・チャーチ
Mog-Ur兄![]() |
Mog-Ur: どうも突然のお願いにもかかわらず、快く迎えていただきましてありがとうございます。実は、私のイギリス人の友人が、この度カリフォルニアのヨセミテ公園で結婚式を挙げまして、そのついでといってはなんですが、テキサスまで足を伸ばさせていただいて、京都福音教会の生みの親であるトムソン兄弟のお話をうかがいたいと思いました。というのも、私は、津島福音教会の会員なんですが、牧師の渡部兄弟の紹介で、今、藤林邦夫兄弟の息子さんのイザヤ兄弟が牧師をしている京都中央チャペルの客員として、京都中央チャペルのホームページでその歴史を書かせていただいているからです。ですから、もちろん藤林邦夫兄弟のお話ももちろんうかがいたいとは思うのですが、それと同じくらいに、トムソン兄弟御自身のお話にも関心があります。で、できましたら、兄弟が日本に行こうと思うようになったきっかけからお話いただけますか。
トムソン:君の牧師の名前は何だって?
Mog-Ur: ネクスト・タウンズの群れの津島福音教会の渡部牧師といいます。
トムソン:渡部兄弟。あったことはないが、あちらこちらで名前は聞いている。ベル兄弟も私もここの教会の出身なんだ。そして今も私はその教会に通っています。ベル兄弟の息子のデービッドが今その教会の牧師をしています。ベル兄弟の長男のネイサン・ベル、私達昔のことを知る者は、ネクスト・タウンズといえば、ネイサン・ベルの名前を思い出しますね。ネイサンは今中国で宣教師をしていますが、大変よく働いています。
とにかく、ベル兄弟とベル姉妹、彼女の娘時代の名前はルース・クートだったんだが、
津島福音教会渡部昭男牧師![]() |
Mog-Ur:クートって、あの生駒聖書学院の?
トムソン:そう。生駒聖書学院の。彼女はレナード・クートの娘だったんだが、ジョン・ベルと結婚したんだ。二人の出会ったのはオクラホマ州タルサの聖書学院だったが、私はその聖書学院でベル兄弟の後輩になるんだよ。
とにかく、二人が結婚すると、クーと兄弟はベル兄弟にここの教会の手伝いをしてくれと誘って、二人はサンアントニオに来たんだね。
ここ、サンアントニオには大きな陸軍基地がある。そして私も徴兵されてここに配属になり、二人のいたエマニュエル教会に通うようになったんだよ。そしてそこで、今の家内と初めて出会ったんだね。当時彼女はまだ15歳か16歳で、デートに誘うこともできなかったが、とても私の印象に残ってね。それで戦争が終わって聖書学校に入りなおそうと思った時に、ここサンアントニオにあるIBC(International Bible College)を選んだんだ。
で、君の質問だが、もちろん、神が導いてくださったと思うが、クート兄弟がいつも、もう誰彼かまわず日本宣教の重荷を担わそうと一生懸命だった。彼はあそこに戦前にいたからね。そしてみんなに日本宣教の重荷をもたせたがっていた。ま、彼の影響がとても大きかったことは間違いないね。
Mog-Ur:あ、そうだったんですか。クート兄弟は、戦争直前に日本を追われていたことは知っていましたが、彼はアメリカに来てたんですか。でもIBCというからには、こちらが生駒(生駒バイブル・スクールも英語ではIBCと略される)のお兄さんになるんでしょうかね。
| アメリカ・サンアントニオのIBC 壁面に Impossibilities Become Challenges (不可能は挑戦となる) のモットーが掲げられている。 ここにMog-UrのIBC訪問記がある。 ![]() |
トムソン: 逆だよ。クート兄弟はまず日本に聖書学校を作り、それからアメリカに来たんだから。とにかく彼は授業の中でちょっとした簡単な日本語を教えてくれた。カタカナやひらがなを黒板に書いたりしてね、そして私達に言わせるんだよ、あ・い・う・え・お、か・き・く・け・こって。彼もほとんど何も教えられなかったけれど、いつも日本に行けってね。多くは残らなかったけど、24名から30名の宣教師がクート兄弟の影響で日本に出かけたね。少なくともそれくらいはいたよ。彼はもう大きな土地をもってたしね、日本に。
Mog-Ur:なるほど。じゃ、あなたはこちらのIBCから日本に派遣されたのですか。
トムソン:いや、違う。クート兄弟はエマニュエル・チャーチという名前の教会をこちらで建てあげていた。で、クート兄弟が戦後日本宣教にかかりっきりになると、義理の息子のベル兄弟に教会を託していったんだね。で、私が日本に行くことになった時、このベル兄弟の下で宣教師に任命されたんだ。
ベル兄弟は本当に優れた人で、藤林兄弟も同じだったが、人が何かをしようとする時には、その人自身が自分の考えで最後まで判断できるように導く人だった。
実は、私が日本に行きたいと申し出た時には、ベル兄弟も私より半年遅れて日本に行くことになってたんだけれど、それを私に言うと私の感情や精神や決定に影響を与えることになるかもしれないということで、一切私にそのことは言わなかった。
藤林先生もそんなんでしたね。誰よりも思いやりがあり、慎重で、本当に美しい心の持ち主でしたね。私は、そういうお二人とともに働くことができて本当に祝福されました。
とにかく、ベル兄弟はクート兄弟と一緒に生駒聖書学院で働いた。彼は最初そこへ4年間行ってた。そしてそれから彼は帰国し、一年か二年アメリカにいた。何年こっちにいたかはっきりと覚えてないが、とにかく彼らが再び日本に帰ってきてからネクスト・タウンズははじまったんだ。
Mog-Ur:ということは、ベル兄弟によってというか、ベル兄弟のエマニュエル・チャーチによって日本に派遣されたということですね?
トムソン:実は、日本に行きたいといった時連絡をとったのはクート兄弟だった。そして私が日本に行くことを許可したのもクート兄弟だ。私は、クート兄弟のお手伝いをするために日本に行ったんだ。だから資金的にはクート兄弟のエマニュエル・チャーチの支援を受けていた。で、私が日本についてから半年後にベル兄弟も日本にきたんだ。そして彼が日本にいる間は、クート兄弟の息子のデービッド・クートがこちらの教会の牧師をしていたんだ。
<略>
トムソン:クート兄弟は2つの異なる建物を賃貸して教会をやってたんだが、それからパイン・ストリートに教会を買ったんだ。ベル兄弟が日本に行っている間はデービッド・クートが牧師をしてました。それからベル兄弟が帰ってきて、教会はだんだん成長し、そしてベル兄弟はもっと大きな教会を買ったんだ。
Mog-Ur: じゃ、そのパインストリートの教会であなたは宣教師に任命されたんですね。
トムソン:はっきりと覚えていないな。いや、違うな。あそこで私は結婚したんだ。ベル兄弟があの教会で私達を結婚させてくれたんだ。
Mog-Ur:クート兄弟の教会の法人名はなんていうんですか。
トムソン:法人名はエマニュエル・チャーチだね。次第にクート兄弟は日本から離れられなくなって、やがてもう日本にかかりっきりになって、本当に時々しか帰ってこなくなった。それでベル兄弟が専任の牧師になったんです。それで彼はもっと大きな教会をテキサス・アベニューに建てたんです。彼は御霊に、彼はリバイバルに熱心だったから、リバイバル・テンプルという名前に変えたんだ。
| テキサス・アベニューの旧リバイバル・テンプル 今はアッセンブリーズの教会が入っている。目の前に池があり、一帯は市民の憩う公園となっている。ここに集った兄弟姉妹の愛がなければ、本山の京都福音教会の今日はなかったことを、はたして私たちのどれほどが知っているのだろうか。 ![]() |
Mog-Ur:なるほど、クート兄弟がエマニュエル・チャーチをサンアントニオにたて、そしてエマニュエル・チャーチが法人名となった。そしてベル兄弟がクート兄弟のあとを継いで主任牧師になると、今度は彼がテキサス・アベニューにもっと大きな教会を建て、リバイバル・テンプルと呼んだんですね。
トムソン:そう。そしてその法人の下で最初はクート兄弟が、それからベル兄弟が専任の牧師となり、ベル兄弟は宣教師を任命することができるようになったんだ。そのベル兄弟も2年程前になくなって、今は彼の息子のデービッド・ベルが牧師になってる。そして彼がそれをデスティニー・チャーチと改名した。だから3つの名前がある。エマニュエル・チャーチ、リバイバル・テンプル、そしてデスティニー・チャーチとね。でも3つとも全部、法人名はエマニュエル・チャーチだと思う。そして彼らは彼らとともに働きたいという人たちを教職者に任命できるんだ。
Mog-Ur:だからあなたはこのエマニュエル・チャーチという法人に宣教師として任命された。
トムソン:そうだ。でも本当に大昔の出来事だね。
Mog-Ur:もちろんみんなペンテコステ派ですよね。
トムソン:もちろんだよ。
Mog-Ur:それは何年のことでしたか?任命されたのは。
トムソン: そうだね、えっと、そうだね。(としばし記憶をたどって沈黙)それよりも前に、こういうことの前の問題として、クート兄弟、ベル兄弟、そして私自身、みんなユナイティド・ペンテコスタル・チャーチ(以下UPCと略す)の会員だったんだ。ベル兄弟はUPCによって叙任されていた。クート兄弟がここに来た時、彼はUPCのメンバーだった。そして叙任もUPCだった。そして段段、意見が合わなくなって、彼らはUPCを離れ、そしてエマニュエル・チャーチになった、そんなところだ。
なんで彼らがUPCからはなれたのかは知らない。ひょっとしたらクート兄弟が自分のエマニュエル・チャーチ・グループを持ってたからかもしれない。とにかくその間に私もUPCから免許をもらってたんだ。そして段々、クート兄弟も、ベル兄弟も、そして私も、もうUPCじゃなくなってたんだ。
私は叙任はされてなかった。UPCには三段階の叙任、いや免許があるんだ。ジェネラル・ライセンス、こいつは誰かの指示を受ける段階だ。で、私はジェネラル・ライセンスを持ってた。これは叙任(オーディネーション)の一段階下のものだ。クート兄弟も、ベル兄弟も叙任されていたが私はジェネラル・ライセンスをもらってた。
私がIBCにいった時は、あそこはUPCの聖書学校だった。そして聖職者になりたいという人は、UPCのジェネラル・ライセンスを取りにあの学校に行ったんだ。だから私はジェネラル・ライセンスを持ってたんだ。クート兄弟は私の先生だった。ベル兄弟も、デービッド・クート兄弟も私の先生だった。そして聖書学校、学校全体がUPCだったんだ、当時は。でもだんだん、全部変わってしまったんだ。どうしてかはわからない。それは私が日本に行く前に変わってしまってた。そして私が日本にいった時には、私はもうUPCのジェネラル・ライセンスはもってなかったんだ。それで私はベル兄弟の教会で叙任されたんだ。ひょっとしたらクート兄弟もその時はそこにいたかもしれないけれど、今じゃ記憶が定かじゃない。
私は1956年に日本に行った。3月だった。息子はまだ4歳にはなっていなかったし、私の娘は8歳だった。息子はその翌月4歳になるところだったが、その時はまだ3歳だった。私は35歳で家内は29歳だった。
Mog-Ur:じゃ、四人そろって日本に行ったんですね。日本のどこでした?
トムソン:生駒聖書学院だった。私は日本語を勉強したんだ。とても素晴らしい日本語の先生がいたね。もう名前は忘れてしまったが、先生自身も後に牧師になったね。そこで私は一年勉強したんだ。
Mog-Ur:なるほど。でもそれは、戦争が終わってから11年もあとのことですね。クート兄弟はいつ日本にいったんですか?
自室でくつろぐトムソン兄![]() |
トムソン:帰れるようになったらすぐだったね。50年頃だったと思うね。でも確か、47年か48年にも一度帰ってるはずだ。私は48年に卒業したからね。
私は46年に日本に行く決心をしたんだ。でも宣教師が海外に出かける前にはたくさんの問題が解決されなければならない。で実際に日本に行ったのは56年のことだった。本当に長い間行きたいと願いつづけてやっと実現できたんだよ。
Mog-Ur:戦前は何をしてたんですか?
トムソン:聖書学校の学生だ。オクラホマのタルサでね。そして戦争が終わり、除隊するとすぐにまたサンアントニオの聖書学院に入りなおしたんだ。
Mog-Ur:結婚されたのは?
トムソン:(テレながら笑う)藤林兄弟のはなしより、私の話ばかりじゃ申し訳ないな。ま、とにかく、さっきも言ったけれど、サンアントニオには大きな陸軍基地がある。で陸軍時代に私はサンアントニオに来たんだ。そしてついた最初の夜に教会に行って家内を始めて見かけた。彼女はまだほんの15,6歳だったけれど、私は、、、もちろん何もできるわけない。若すぎるからね。で、私は転属になった。多分その時には彼女は17歳だったと思う。それからは、互いに手紙を書きあって、そして私が帰ってきた。私は、まだ彼女のことをあまり知らなかった。それで二人ともが聖書学校に通ったんだ。そしてそれから、その年の夏が終わった時に、結婚したんだ。その後は彼女はもう学校に行かなくなって、でも私は続けたんだよ。
Mog-Ur:戦争中はドイツだったんですか?
トムソン:いや、私はニュー・カレドニアにまず行った。オーストラリアとニュージーランドの間の。そして多分2年半かそこらそこにいた。いや、あれは2年だったな。だって私はこの国に10ヶ月いたんだから。それから2年間ニューカレドニアで、それから6ヶ月間フィリピンに行ったんだ。そしてその後、フィリピンからここに帰ってきたんだ。
Mog-Ur:じゃ、日本と戦争してたんだ。
トムソン:いや、私は後方支援部隊だったから、だから誰も撃たなかったんだ(笑)。