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Weekly Readings -- 2003年2月23日
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物理的には他の瞑想者たちと隔たっているとしても、聖霊の中で一つとされている。毎朝、毎晩、瞑想のために30分間時間を取りなさい。可能であれば、同じ時間、同じ静かな場所で瞑想しなさい。瞑想が自分の一日の自然な一部になるからです。時間は十分に取りなさい。マントラを忠実に唱えなさい。そして聖霊の中で私達すべてを一つにする沈黙のネットワークの中に入りなさい。
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Laurence Freeman神父(ベネディクト会)著, Dearest Friends, March 1996 WCCM International Newsletter
話すことを怖がる人が多くいますが、それはよく理解できることです。なぜなら話すということで、取り返しのつかない結果をもたらす何かをしてしまうということもありうるからです。だから口を開く前に考えるということは賢明なことだといえるでしょう。そして考える前に瞑想するというのは、さらに賢明なことなのです。
自己表現に対する恐れは、言葉というものが、自分が望まないことまで伝えることがあるということに気づいているからのものです。つまり自己表現のつもりが実は自己暴露となることがありうるということです。仮に私達の言葉が無意識のうちに怒りや偏見、恐怖あるいは錯覚とかいった私達の内にいる悪鬼を表現してしまうと、その後には苦い後悔の念が残ってしまいます。[しかし]瞑想をしていると、やさしさと真実を伝えることのできるものとしての言葉に対する自信を回復することができますし、ともっと自由にコミュニケーションをとることができるようになります。それは、瞑想の目標が唯一つの言葉を純粋に単純に、しかも完全に真実をこめて唱えることだからです。もし一つの言葉をまことをこめて唱えることができるようになるということは、イエスの言葉を「霊と命」としたあの混じり気のない言葉という目標にそれだけ近づく事になるからです。
マントラは神の言葉です。それを単純に唱え、そしてそれを自分を捨てて聴くことができるならば、それは完璧なコミュニケーションといえます。これが聖霊なのです―それ、すなわち神である愛の三位一体との、純粋で無限のそしてまったくゆがみのないコミュニケーションなのです。コミュニケーションが完璧であれば、言葉など必要ではありません。純粋な言葉は沈黙へと導きます。またこれは山の頂にある沈黙のような、単なる頂点となる経験でもありません。それは絶え間なしに自分と共にあるものなのです。沈黙は、ちょうど瞑想の静止のように、毎日の会話の中で真実を語らせてくれますし、私たちがどうかするとすぐに陥る自己欺瞞的ゴシップと非難といった偽りに陥らないようにしてくれるものです。こういった偽造通貨を思いやりという真実の貨幣で置き換えるのです。日々の瞑想の中の沈黙の働きによって、私達は真実をもっと単純にそして正確に語り、じぶんが言いたいこと、言うべきではない事、そして言える事を知ることができるように整えられていくのです。これが聖霊の賜物の一つであり、沈黙とそして人間の営為におけるあわれみの実践の成果である分別なのです。
マントラという沈黙の言葉は、私たちが話をしたり行動したりしている時でさえも意識の中心において鳴り響いています。そして強い感情が燃え上がった時は心を静める手助けをしてくれます。そしてバランスを失った時は瞑想がすぐにもとの状態に戻してくれます。現代生活はあまりに調和と均衡という普通の人間性から疎外されているので、私たちはいまだ実現されていない理想に恋焦がれるようにそれらに飢え乾くのです。長期にわたって毎日瞑想をしている人たちは、こういう人間性が十分実現可能なものであると証しています。
調和、均衡そして満足は欲求の対象とはなりえないものですし、また私たちが執着すべき状態でもありませんが、それにもかかわらず手に入れようと努力する価値はあります。それがあれば、苦難の谷間にある時も、失意の平原にある時も真理の御霊にたいして自らを開いていることができるからです。マントラは頂においても谷間においてもまったく同じように響き、あらゆる経験に統一を与えてくれるからです。もし瞑想が私たちが成長する助けとなるとするならば、それは成長が人生の高みと低みが、内側と外側が一つになることを意味するからなのです。
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覚えておきなさい。腰をおろし、背筋をピンと伸ばして身動きせずに座りなさい。眼を軽く閉じ、体をリラックさせて、しかし心はとぎすませて座りなさい。声を出さずに、心の中で、一つの単語を唱え始めなさい。私達は「マラナタ」という祈りの言葉を薦めます。同じ長さの4音節としてそれを繰り返しなさい。自分の唱えるその言葉に耳を傾けなさい。マラナタは、そっと絶え間なしに唱え続けなさい。何も考えたり、想像したりしてはいけません。霊的なことであろうと俗的なことであろうとです。色々な考えやイメージが浮かんできますが、それらは過ぎるに任せなさい。最初から最後まで、ただ自分の注意を謙虚に飾り気なしに、自分の選んだ言葉を信仰のうちに唱えることへ戻しつづけなさい。
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After Meditation
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Meister Eckhart著, The Essential Sermons, cited by Willigis Jager, SEARCH FOR THE MEANING OF LIFE: Essays and Reflections on the Mystical Experiences( Liguori: Triumph Books, 1995), p.
本当にそして真実神を持っているという人は通りであれ大勢の人と一緒にいる時であれ、どんなところにいようとも、教会やただ一人でいるところに時とまったく同じように神を持つ。ある人が野原を横切って行って祈りを唱えるとしよう。またその人が教会の中でなら神に気づくということがあるとしよう。もし静かな場所にいるからという事でそれだけ神を強く気づくとするならば、それはその人自身の欠陥によるものであって、神に欠陥があるからではない。神はあらゆる物の中にあらゆる場所に等しくおられるからだ。
絶対的に神の臨在の中にある人は神をその神性の中で把握しており、その人には、神があらゆる物の中で輝いている。というのもあらゆる物が神の味がするからだ。しかし逃げてばかりいて、物事を遠ざけ、自分をが系的孤独の中に閉じ込めている限、このことは理解できない。どこにいようと、また誰といようと御霊の孤独を実践しなければならないのである。物事を打ち破り、物事の中にある神を把握するすべを身に着けなければならないのだ。
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