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定例瞑想会
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Weekly Readings - 2004/06/27
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物理的には他の瞑想者たちと隔たっているとしても、聖霊の中で一つとされている。毎朝、毎晩、瞑想のために30分間時間を取りなさい。可能であれば、同じ時間、同じ静かな場所で瞑想しなさい。瞑想が自分の一日の自然な一部になるからです。時間は十分に取りなさい。マントラを忠実に唱えなさい。そして聖霊の中で私達すべてを一つにする沈黙のネットワークの中に入りなさい。
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John Main, "Growing in God (
神の中での成長)," THE WAY OF UNKNOWING (New York: Crossroad, 1990), pp. 79-81.

長く瞑想をしていると、つまりそれだけ幾多の困難そしてつまずきの中を屈せずに耐えしのいでいけば、それだけはっきりとわかるようになります。もし有意義で深い生き方で人生を送るつもりならば、堅忍しなければならないのだということが。絶対に、最初から最後までマントラを唱えるという瞑想の道を忘れてはならないのです。これが基本、自明な真理です。何があってもその真理を見失うようなことがあってはなりません。。。瞑想の鍛錬、いや苦行では、唯一つのことが求められているにすぎませんが、それは絶対的に従わなければならないものです。すなわち、自分をあの他者に完全に委ねることができるほどに完全に自分を打ち捨てる、思念や分析や感情というものから完全に離れなければならないのです。

現実と非現実の違いは何でしょう?それを理解する一つの方法は、非現実を欲望の産物としてみることだと思います。瞑想の中で身につけていくことの一つが、欲望を打ち捨てることですが、それができるようになるのは、私たちへの招きが、現在という瞬間の中に全的に生きることだと知っているからです。現実は静止と沈黙を求めます。そして静止と沈黙に完全に身をゆだねることが瞑想なのです。だれでも自分の体験からわかるようになりますが、静止と沈黙の中で、あるがままの自分を受け容れることができるようになるのです。これは現代人、中でも、「野心を持つべきじゃないか?自分が悪人だったらどうなる?もっと善人となることを望むべきではないか?」と、とても大変な努力をするようにしつけられている現代のキリスト者の耳には大変奇異に響きます。

現代の本当の悲劇は、幸せやら、成功やら、権力やら、何かかしかに対する欲望に浸りきっているため、いつだって、ひょっとしたらなれるかもしれない者としての自分を想像してばかりいるところにあります。あるがままの自分を知り、自分が今いる場所を受容するということが本当に少ないのです。しかし伝統的な知恵が私たちに教えているのは、自分が在ること、そして自分があるがままの自分であることを知れということです。確かに私たちは罪人であるかもしれません。そうだとするならば自分が罪人であるということを知るということが大切なのです。しかし、それよりもはるかに大切なことは、自分自身の体験から神こそが私たちの存在の基盤であり、私たちは神の中に根を張っており、礎を置いているということを知ることです。。。。これが私たち全員が必要としている安定なのです。必死の努力や欲望の運動ではなく霊的に根を張った状態の安定と静寂なのです。一人一人が、瞑想の中で、神の静寂の中で、自分は神の中に自分が必要なすべてを持っているということを知るべく招かれているのです。[。。。。]

瞑想は信仰への、つまり完全に自分を委ねきった状態への至高の道です。現実であるものへと全的に自分を委ねきった状態、それはまた永遠なるものへと自分を委ねきった状態であるに違いないのですが、そこに基づかない限り一切の活動は浅いもの、単なる即自的なものに違いありません。私たちへの招きは、今、直接的個人的知識をもって、現実であり永遠なるものを知り、そしてそれを知ることによって、愛に触発された人生を生きることなのです。この召しが、「私をおつかわしになられた方の栄誉を求める者は真実な人であり、その人には不実なところは何もない」(ヨハネ718)というイエスの言葉の背後にあるのです。私たちの瞑想の目的は自分の中に何も不実なものがなく、ただ現実だけがあるということなのです。愛だけが、神だけがあるのです。
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覚えておきなさい。腰をおろし、背筋をピンと伸ばして身動きせずに座りなさい。眼を軽く閉じ、体をリラックさせて、しかし心はとぎすませて座りなさい。声を出さずに、心の中で、一つの単語を唱え始めなさい。私達は「マラナタ」という祈りの言葉を薦めます。同じ長さの4音節としてそれを繰り返しなさい。自分の唱えるその言葉に耳を傾けなさい。マラナタは、そっと絶え間なしに唱え続けなさい。何も考えたり、想像したりしてはいけません。霊的なことであろうと俗的なことであろうとです。色々な考えやイメージが浮かんできますが、それらは過ぎるに任せなさい。最初から最後まで、ただ自分の注意を謙虚に飾り気なしに、自分の選んだ言葉を信仰のうちに唱えることへ戻しつづけなさい。
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瞑想の後で
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Julian of Norwich, 54
, REVELATIONS OF DIVINE LOVE神の愛の啓示 (London: Penguin, 1966), p. 157

神が私達の魂の中に内住くださっていることはなんという喜びだろうか。それ以上に私達の魂が神の中にいるということが大きな喜びだ。私達の造られた魂は神の住処となるべきものなのだ。そして魂の住処は、造られることのないお方、神であるべきなのだ。心の底から、私たちの造り主である神が私たちの魂に内住していることを知るということはすばらしいことである。神という実体をもって私達は自分となる

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