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Weekly Readings − 2004年7月18日
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物理的には他の瞑想者たちと隔たっているとしても、聖霊の中で一つとされている。毎朝、毎晩、瞑想のために30分間時間を取りなさい。可能であれば、同じ時間、同じ静かな場所で瞑想しなさい。瞑想が自分の一日の自然な一部になるからです。時間は十分に取りなさい。マントラを忠実に唱えなさい。そして聖霊の中で私達すべてを一つにする沈黙のネットワークの中に入りなさい。
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Laurence Freeman師著 JESUS: THE
TEACHER WITHIN (イエス、内なる先生)(NewYork:
Continuum, 2000), pp. 130-131.
とするならば、神を見つけるためには、神を捨てなければなりません、少なくとも素朴な神様像はなくさなければなりません。これまでなじんできたイメージを切り離すということは、個人にとっても、また私たちの属している共同体にとっても苦痛に満ちたものとなるでしょう。それは私たちの魂の深層が変えられることだからです。宗教的でない人にとっても、なじみ深い、安心感を与えてくれる神様が消えていくという痛みが起こることでしょう。この生ける神秘を発見することには喜びばかりではなく痛みが伴うのです。なぜなら、私たちが打ち砕かなければならない偶像は私たちの自分自身についてのイメージととても強く絡みあっているからです。
しかし、神から切り離されているという感覚が、霊的個性の形成には必要なのです。[しかし]それは宗教的な人々にはとりわけ苦痛であり戸惑いをもたらすものです。初めて御国の臭いをかいでも、神を発見したというよりも、かつてあれほどはっきりと与えられていた神を喪失してしまった、いや、冒涜的に拒絶してしまったように感じられるかもしれません。しかし不在のもたらす畏ろしい空虚感の向こう側に神との遭遇が待っているのです。ゆっくりとではありますが、やがてはっきりと見えてきます。写像をなくすことが、本体を見つける前提条件だということが。道に迷うことが神を捜し求める本当の道なのです。神の姿に関するこの真理は、自分ではしたがっていることにまるで気づいてもいないもう一つの法を明示します。すなわち、私たちの本当の「自己」をみつけるためには、エゴである自分を失わなければならないということです。一つの関係を深めるためには、相手を放さなければなりません。すると不在が、それとは気づかぬうちに、存在の神秘へと変質するのです。そしてやっと私たちは気づきます。神の不在とは、単に、神の本当の存在を把握する理解力の不足でしかないということに。
トマス・アクイナスによれば、神について正確に言えることは、神は、神という存在ではないということだけである。とするならば、私たちの神との関係は、私たちの自分自身との関係に似ているといえます。仮に神は私たちには常に神秘であるとするならば、私たちも自分にとって神秘であるということもまた真なのです。この神秘は、結局、自分が存在しているということ、いや、何であれ存在するということであります。この不思議が人間の根源的資質であり、アリストテレスによれば哲学の要石なのです。人間であることの不思議は神のミステリウム(mysterium)に付随するものなのです。この神の神秘性が神に関して聖書にある第一の確言です。キリスト教神学がこれまでに蓄積してきた思想および儀式にもかかわらず神の不可知性を知ることがキリスト教神学の要なのです。
聖アウグスティヌスは言っています。「仮に理解できるとすれば、それは神ではない。理解できたとすれば神ではない何か他のものを理解したのだ。仮にほんの一部なりとも理解したとすれば、それは自分自身の思想をもって自分を欺いたということだ。」
言葉を絶する神の神秘を前にしてのこの根本的な謙虚さ(そしてユーモア)が、キリスト教の伝統の基盤なのです。この伝統の中心から、自由を与える権威が生まれるのです。その先生たちは、賢明なる不可知をもって、学識深い謙虚な無知をもって、御国に至る道を指し示すのです。
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>>>>> 30分間瞑想
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覚えておきなさい。腰をおろし、背筋をピンと伸ばして身動きせずに座りなさい。眼を軽く閉じ、体をリラックさせて、しかし心はとぎすませて座りなさい。声を出さずに、心の中で、一つの単語を唱え始めなさい。私達は「マラナタ」という祈りの言葉を薦めます。同じ長さの4音節としてそれを繰り返しなさい。自分の唱えるその言葉に耳を傾けなさい。マラナタは、そっと絶え間なしに唱え続けなさい。何も考えたり、想像したりしてはいけません。霊的なことであろうと俗的なことであろうとです。色々な考えやイメージが浮かんできますが、それらは過ぎるに任せなさい。最初から最後まで、ただ自分の注意を謙虚に飾り気なしに、自分の選んだ言葉を信仰のうちに唱えることへ戻しつづけなさい。
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瞑想の後で
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An excerpt from Abhishiktananda, PRAYER (Delhi: ISPCK, 1999), p 81-82.
祈りの中で、「自分との関係の中で」感じ、神を取り扱い続ける限り、アビラの聖テレサの比喩的表現で言うところの内面の城の最奥の屋敷にはまだ入り込めていないことは確実である。目的が神である人々は、何を思いつこうが、あるいは感じようが、どれほどの高揚をもたらすように見えるにせよ、いかなるもののところであれ、中途でやめるということは決してしない。神は彼方にいる。
格言の書(30:15-16)に、「十分だ!」と決して言わない3つのもの―そして四つ目のものがあると書かれている。しかしシェオル(死者の場所)、子を産まない子宮、からからに干からびた大地、そして火というこの4つのもの以上に、そのものの深みから「十分じゃない」「ネティ、ネティ!」(サンスクリット語で「これじゃない、あれじゃない」)とと絶え間なしに叫ぶのは神に向かって進み続ける霊である。神ご自身を除いてそれを満たすものは何もない。しかし自分自身を捨てることができるようにならない限りそれが神に届くことは永遠にできない。それができるようになった時初めて理解する、沈黙が最高でもっとも真実な賛美であると:シレンティウム・ティビ・ラウス。[あなたの賛美は沈黙です(詩篇:65:1)]
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日本語のWeekly Readings (瞑想の栞)翻訳・監修責任
WCCM日本語WEBサイト コオーディネーター 黒宮康明
E-mail:info@esuk.net
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