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前週の栞

日本語監修センター
075-862-7114

定例瞑想会
日曜日
午後7時-8時
京都市左京区
北白川カトリック教会

水曜日
午後6時半-7時半
京都市上京区
西陣カトリック教会


The International Centre
The World Community
for Christian Meditation
St. Mark's, Myddelton Square
London EC1R 1XX
England, UK
International Office:
+44 0207 278 2070
Email: mail@wccm.org

The World Community for Christian Meditation +
Weekly Internet Medit@tion Group
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Weekly Readings ?2004
1219
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物理的には他の瞑想者たちと隔たっているとしても、聖霊の中で一つとされている。毎朝、毎晩、瞑想のために30分間時間を取りなさい。可能であれば、同じ時間、同じ静かな場所で瞑想しなさい。瞑想が自分の一日の自然な一部になるからです。時間は十分に取りなさい。マントラを忠実に唱えなさい。そして聖霊の中で私達すべてを一つにする沈黙のネットワークの中に入りなさい。
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A selection from Laurence Freeman OSB, "Letter One," WEB OF SILENCE (London: Darton, Longman, Todd, 1996), pp. 14-17.

新約聖書は当然ながら平安と喜びをキリストを中心とする生活の表現と結び付けています。しかし、言葉には常につきまとう危険ではありますが、これらの言葉は今や、単なるキリスト教の業界用語として使われることがしばしばです。私達は平安、愛、そして喜びと霊の賜物ということを語りますが、それはそういうものがともに歩む私達の生活を特徴つけるべきものだという「べき論」からであって、現実に、そうだからということはめったにありません。また、そういうことは、中心への行脚が外側から内側へと移っていかない限りありえないことなのです。瞑想が平安の道であるのは、それが、人を前へ、深く奥へおしすすめ、平安を妨げるあらゆる錯覚、作り事、自己欺瞞が溶解される場所である心の内奥の中心へと導きいれてくれるからなのです。人間というのは自分の欲望や偏見を合理化するものですから、瞑想のような、理性などよりもっと深い知覚へと導きいれてくれるものが必要なのです。

悩み事や心配事の真っ只中にある時は、そこから抜け出そうといくら考えたところで平安はえられません。思案すればするほど、混乱した出発点に立ち戻るのが常であり、思案は偽りに満ちた迷宮でしかありません。それに対して祈りは、思案など及ばぬ深みへと到達させ、「あらゆる理解を超える」平安へと導いてくれる真実の迷宮です。不安を手放すことが最大の困難です、そしてそのことがエゴがいかに負の弾力性に富んでいるかを証明しています。しかし実は、単純そのものなのです。瞑想の本質を把握しさえすればよいのです。その本質とは、何も考えないようにするというのではなく、単純に何も考えていないということなのです。

古代の迷宮の多くにおいては、中心にはモンスター、すなわち恐ろしいものそして命への危険が待ち受けていました。キリスト教の迷宮では人生のあらゆる紆余曲折の中心にキリストがいます。キリストの中では、恐怖はありません。最終的かつ根源的な愛の確信の中で恐怖が溶解していきます。瞑想とは愛の働きであり、神を究極的に知ることは、思念によってではなく、愛によって可能になるのです。救いにいたる知とは愛の知なのです。だからジョン・メインは、人間的な愛の体験が、なぜ瞑想するのか、そしてどうして瞑想が実在へといたる道であるのかを理解する最善の方法であると述べているのです。

あらゆる関係と同様に、瞑想にも段階があります。一つ一つの成長の段階に必ず危険、すなわち信仰による跳躍があります。誰しもが皆、熱狂、瞑想法の模索、意欲の喪失、一瞬の啓示といった段階を経ていきます。しかし、ともに迷宮を旅するもの同士として、私たちは、お互いに声を掛け合い、迷宮の中心こそ私達の本当の家であり、そこにいたれば、私達はただ自分でいられることを思い出させあうのです。喜びが現実の本質であればこそ、そしてキリストが私達すべてへの愛の中で、その喜びへの最終的な覚醒へといたっていればこそ、私達も、たとえ一閃のきらめきのような喜びであれ、あるいはほんの一瞬の目覚めであれ、体験することができるのだということを胸に刻むのです。
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覚えておきなさい。腰をおろし、背筋をピンと伸ばして身動きせずに座りなさい。眼を軽く閉じ、体をリラックさせて、しかし心はとぎすませて座りなさい。声を出さずに、心の中で、一つの単語を唱え始めなさい。私達は「マラナタ」という祈りの言葉を薦めます。同じ長さの4音節としてそれを繰り返しなさい。自分の唱えるその言葉に耳を傾けなさい。マラナタは、そっと絶え間なしに唱え続けなさい。何も考えたり、想像したりしてはいけません。霊的なことであろうと俗的なことであろうとです。色々な考えやイメージが浮かんできますが、それらは過ぎるに任せなさい。最初から最後まで、ただ自分の注意を謙虚に飾り気なしに、自分の選んだ言葉を信仰のうちに唱えることへ戻しつづけなさい。
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瞑想の後で
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A selection from from Jalaluddin Rumi, BREATHING TRUTH, edited by Muriel Maufroy (London: Sanyar Press, 1997), p. 158.

もし火の知識が言葉だけによるものなら、自分を調理してもらうがよい。
他人から与えられた確実性の中に安住してはならない
やけどをする前には本当の確実性などないのだ。
この確実性がほしいのか?ならば火すべてを取れ。
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