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Easter 2004
イースターの三聖日をはじめるにあたり、瞑想の沈黙の中で私たちが共有している親しい交わりを覚えることで、今まさに乗り出そうとしている大海原の人知をこえる深みを理解しようではありませんか。そして同時に、私たちの生活の中おける、今日の世界の生活の中における主の復活の力をも[理解しようではありませんか]。

イエスは、このイースターに再び、私たちの神聖な象徴的再演の中でよみがえります。まさにその時、カインに始まる人間の暴力の渦が、また人間のコントロールが効かなくなろうとしています。ついこの間までは、イラク侵攻・占領を指揮した人たちにはそれ以上に明らかなことはない、まったく白か黒かの問題でした。自分達の下した「困難な決定」において、明らかに神は自分の側に立っていました。いや、少なくとも彼らは、本当に単純にそう思っていたらしいと見えます。(純真さを失ったころで暗黙のうちになされた政策決定、表には出てこない会合では何が話し合われていたんでしょうか?)

勝利の後は、もちろん、街の通りでの乱舞もありましたし、栄光に満ちた祝賀風景も、空母への着陸もありました。しかしいつものように、栄光の幻影は急速にしぼんでいきました。そして今やファルージャです、モスクの爆撃です、抑えようのない復讐の連鎖です。

暴力は安易です。最も深いところでは、正義と邪悪、民主主義と自由、自由と抑圧とはそれほどきれいにはっきりと分かれているわけではないので決して単純ではありません。

この聖日の神聖さを本当に大切にするならば、イースターの神秘によって、私たちは今再び黙想の「安息」の中で一瞬の聖なるゆとりを持つ機会を手に入れることができます。それはイエスの中に、報復を求める怒りの神に支払う切り刻まれた代償ではなく、純粋で無垢な犠牲、比類なく純粋な犠牲を見る機会なのです。受難に関しての最近の映画を見た人々は、イエスが耐え忍んだ苦痛に度肝をぬかれました。そしてそのおかげで、イエスがそれを変えようとこの世に来られた、神と人間社会に関する一つの理解がはびこることになってしまったともいえます。この昔ながらの理解でいけば、私たちは敵に対して暴力を振るうことができます、なぜなら(結局)神が、世界をご自分と和解させるためにその暴力を必要としていたし、またそれをお認めになったんだ(と私たちが言う)からです。

しかしイエスは、神と人間社会に関してまったく異なるものをあらわしているのです。神は暴力を是認しないばかりか、血なまぐさい生贄を受け容れもしません、そして神は誰かの味方をするということもしないのです。とはいえ、神は抑圧者というよりはむしろ犠牲者の中に見出されます。しかし(神の)赦しと愛の広がりは、私たちを傷つけ、恐怖のどん底におとしいれる者にも、私たちによって傷つけられ、おびえさせられた人々にも向けられた、あらゆるものを包含するものであって相手を選ぶものではありません。太陽は善の上にも悪の上にも同じように輝くのです。

十字架と復活が世界と人類史に浴びせかける光をもってすれば、抑圧者がまた犠牲者であり、犠牲者が抑圧者ともなれることを見ることができます。まるで古代ローマの凱旋行進の中みたいに、呆然としたサダムが辱められる哀れな映像の中にキリストが見えなかったでしょうか。イエスはどんな犠牲者であれ、苦しめられるところには姿を表し力を与えてくれます。抑圧者が神の名の下に自分の暴力を正当化するところにもイエスは姿をあらわしますが、しかし否定され、目に見えないようにブロックされています。

無垢なる犠牲者ばかりではありません、テロリストの中にも、よみがえったイエスが、神のあわれみには限界がないことと、そして審判の本当の意味とを教えてくれるのです。「あなたの考え方は神の考え方ではありません。」イエスはこの世を糾弾するために来たのではなく、救うためにやってきたのです。それもこの世自身から、この世の狂気、私達が自らにつけた傷、そして冒涜的で子供じみた独善的考えの狂気から救うために。分裂の傷、そして2元性のうみだす錯覚から救うために。

イエスが裁くとすれば、私達の裁き方を裁くのです。

初期にキリスト教に敵対し嘲笑していたケルススがこんな質問をしています。もし本当にイエスが復活したのだったらなんで彼を死に追いやったピラトや祭司長のもとに姿をあらわさないんだ。それこそが自分を迫害した者達にたいする勝利だったことだろうに。それだったら私達もその力を認め敬うこともできるだろうに。でも実際は、イエスは、試練の時に自分を見捨てた連中にしか姿を見られてはいないし、そればかりかほとんど自分だと気づいてすらもらえなかったじゃないかと。確かにイエスは、その受難のさなかにも、暴力に対し暴力を返すということは一切いたしませんでした、言葉ですらしなかったのです。十字架の上で、イエスには、迫害者たちがそれぞれ自分の無知の犠牲者と見えていました。復活の中でイエスは全人類を、イエスの父の無限の彼方から、断腸の思いをもって親しくその懐に抱きすくめます。

これからの日々、瞑想する時には、ジョン神父の教えを覚えましょう、「瞑想する度ごとに私達はイエスの死と復活に与るのです。」福音と聖なる神秘を瞑想する中で、私達の目にも、神秘の中でも最も内奥にあるあの神秘がいつも私達を取り巻いていることが見えますように、それも毎日

大いなる愛
Laurence Freeman OSB