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定例瞑想会
土曜日
午後7時-8時
京都市左京区
北白川カトリック教会
The International Centre The World Community for Christian Meditation
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England, UK International Office: +44 0207 278 2070
Email: mail@wccm.org
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The World Community for Christian
Meditation +
Weekly Internet Medit@tion Group
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Weekly Readings -- 2006年8月6日
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物理的には他の瞑想者達から離れていても、聖霊の中で結ばれています。瞑想が一日の時間の流れの中に組み込まれるように、毎朝そして毎晩、同じ静かな場所、同じ時間に30分間瞑想しなさい。時間をたっぷりと取りなさい、そして忠実にマントラを唱えなさい、そして私たちすべてを聖霊において一つのものとしている沈黙のネットワークに入りなさい。
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John Main OSB, "The Silence of Love," WORD MADE FLESH (London:
Darton, Longman, 1993), pp. 28-29.
聖アウグスティヌスのすばらしい文があらゆる世代のクリスチャンに鮮やかに語りかけます。「あなたの中に入るまで、私の心が安らぐことはありません。」その安らぎを見出すこと、そして安らぎを見出すということは現実と直面することであると悟ることは、人間にとって普遍的で絶えることのない探求です。私たちは、生きていく上で本当にしっかりとした土台を必要としています。人生の本当に多くのものが流れすぎていきます。生きるということは、砂時計の中を砂が流れ落ちていくようなものです。しかし、砂が落ちていくのを見つめながらも、皆わかっています。これがそのすべてということはあり得ない。何かもっとはっきりとし、持続するものがあるに違いないと。
それだけではありません。この岩のような現実は、ただ見つけ眺めるだけのものではないということもわかっています。その土台からしっかりと生きることが求められているのです。これが新約聖書に語られている自由の体験なのです。キリストというどっしりとした土台に根ざし、礎を置いて初めて、「キリストにあって(の中で)」生き始めます。すると私たちの人生とその地平が広がり始めるのです。これがキリスト者の体験です。私たちの召しは、ただ単に孤立した人生を生きろというばかりではなく、神の無限の中から生きよ、いや、むしろ、神の無限の中に生きていけというものなのです。瞑想の体験というのは、このキリストに根ざした生活なのです。キリストの神秘の中に入り込み、その中で自分を失うのです。
から出て、中へ。失い、見出す。これが瞑想について語ることの難しさです。何語を使おうと、それを使い始めたとたんにこの体験の一面を誤って伝えることになる。仮に、「人生を失うこと」について語ったとしたら、私には、私たちの人生がどれほど豊かに、どれほど深遠なるものとして与えられているかということは説明できません。失うと考えると、人生は絶対的な贈り物なのだという私たちの深いところにある意識、つまり、人生は砂時計の中をさらさらと流れ落ちていくものではなくて、永遠の中へと広がっていくものなのだという意識を見失うことになります。
言葉というのは、この神秘の深さを説明するにはあまりにも弱いものなのです。だから、瞑想の絶対的な沈黙が究極的重要性を帯びるのです。私たちは神について考えようとはしません、神に語りかけようとはしません、いや、神を想像しようとはしないのです。神の永遠の沈黙に開かれたあの畏敬の念を起こさずにはいられない沈黙の中にとどまるのです。。。。しかし、「沈黙」という単語自体が、すでにこの体験を正しくは伝えることができませんし、おそらく多くの人々を躓かせることになるでしょう。この言葉には音や言葉を奪われているという否定的な響きがあるからです。
沈黙の瞑想は退行的なものではないかと人々は恐れてしまいます。しかし経験すればわかります。また伝統もそのように教えています。沈黙の祈りは、前言語的状態ではなく、後言語的状態、つまり、言葉がすでに言葉の領域、そして意識の領域の中で、そしてそれを超えて私たちに方向をさし示すという役割を終えた状態なのです。永遠の沈黙には何も欠けるものはありませんし、また私達から何かを奪うものでもありません。それは、まったく資格など必要のない無条件の愛の沈黙なのです。私達は、ここへおいでと招いていてくださり、私達がそこにいることを愛していてくださる、私達をそこにいさせようと造ってくださった父と共にそこに安らぐのです。
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>>>>>>>30分間瞑想<<<<<<<
腰をおろしなさい。身動きせずに背筋をのばしなさい。軽く眼を閉じ、リラックスして、しかし気を張り詰めて座りなさい。静かに、胸の中で、ただ一つの言葉を言い始めなさい。私たちは祈りの言葉「マラナタ」を薦めます。同じ長さの4音節として唱えなさい。自分で言いながら、その音を聞きなさい。やさしく、しかしとだえることなく言い続けなさい。何も考えたり想像したりしてはいけません――たとえ霊的なことであろうと、あるいはそうでなくても。いろいろな考えやイメージが浮かんできます。しかしそれらは流してしまいなさい。瞑想の最初から最後まで、ただひたすらあなたの注意を、謙虚にそして単純に、自分の信仰の言葉を言うことに向けなさい
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瞑想の後で
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Genoaの聖カトリーヌ, noted
in ENDURING GRACE: Living Portraits of Seven Women Mystics, by Carol Lee
Flinders (New York: Harper San Francisco,1993),
p. 130.
「私は視覚によらずに物を見、聴覚によらずに音を聞く。感覚によらずにものを感じとり、味覚によらずに味わう。私は形も量目も知らない。というのも、視覚に頼らなくてもとても神聖なる業が見える。それは、完全、純粋などといった、私が最初に使った言葉は、真実を前にした今やただの偽りに過ぎなかったとしか思われないほど神聖なものだからだ。また私はもう「わが神、わがすべて」と言う事もできない。あらゆるものが私のものだから。神のものであるものすべてがまったく私のものであると思われるから。私は神の中で音を失い、自分を失っている。
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