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日本語監修センター
075-862-7114

定例瞑想会
日曜日
午後7時-8時
京都市左京区
北白川カトリック教会

The International Centre
The World Community
for Christian Meditation
St. Mark's, Myddelton Square
London EC1R 1XX
England, UK
International Office:
+44 0207 278 2070
Email: mail@wccm.org

The World Community for Christian Meditation +
Weekly Internet Medit@tion Group
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Weekly Readings - 2006
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物理的には他の瞑想者たちと隔たっているとしても、聖霊の中で一つとされている。毎朝、毎晩、瞑想のために30分間時間を取りなさい。可能であれば、同じ時間、同じ静かな場所で瞑想しなさい。瞑想が自分の一日の自然な一部になるからです。時間は十分に取りなさい。マントラを忠実に唱えなさい。そして聖霊の中で私達すべてを一つにする沈黙のネットワークの中に入りなさい。
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Laurence Freeman, “Prayer as Meeting: A Christian-Muslim Gathering(
会合としての祈り:キリスト教とイスラム教の集い),”  The Tablet, September, 2006

カインが弟を今まさに殺そうとしていた時、その胸の内には「悲しみと怒り」が渦巻いていました。それは拒絶を経験した時に腹の底に浮かぶ本能的な反応です。そこへ神が現れ尋ねます。「どうしてお前は悲しみ、怒っているのか?」(。。。)しかし神は、さらに、この議論の中でこれまで見逃されていること、すなわち、宗教の超越的な次元について話します。神はカインに待つように、そして「戸口に身を潜めている」邪悪な思いを押さえ込むよう強くすすめます。それができなければ、逆に邪悪な思いがカインを思うがままに動かすことになるからです。祈りは待つことなのです。非暴力の勇気に大変に近いものなのです。ガンジーの言葉を借りれば、それは最高次元の強さを必要とするものなのです。超越はこの至高の忍耐の中から生まれてきます。忍耐というのは、誰かの邪魔をしないだとか、あるいは汽車が遅れた時に苛立たないとか、コンピューターがつぶれた時にそれを叩き壊さないというだけのことではありません。苛立ちを抑えるということは忍耐という美徳のより深い真実を実践することに他なりません。(その意味は、「キリストの受難(passion of Christ)」という表現で用いられている「passion」という語の中にこの語を認めることができれば(訳注:passionはラテン語patiの過去分詞から、patienceは同じpatiの現在分詞から派生している)もっとはっきりと見えることでしょう)

だから奇妙に響くかもしれませんが、待つことの中には受難があるのです。この会合(会合としての祈り:キリスト者と回教徒の集い−キリスト教瞑想会の2006年度平和の道の企画)で修道会や学会を代表して発表された皆さんが、この点をカトリック、スンニ派、正教、そしてシーア派の神秘主義者の多数の著作を引用して明らかにされました。実に多様なテーマでありながら、あらゆる祈りの本質的な経験においては一致しています。愛です。宗教的な人々はすぐに自明なるものを無視していきますが、一番自明であって、もっとも胸に刻んでおくべきことはこれです。愛することのできないものは神のことを何も知らない。これは決して形而上学的理屈ではありません。心の理なのです。人間界でも最も普遍的な経験として、生命のそもそもの始まりからそのことを教えられていますし、それがなければ生命は到底耐え難いものとなってしまいます。愛は超越であり、相手に対する忍耐強い集中を通じて、意識を再度中心に集めることなのです。親がいつも行っていることです。恋人たちもしています。宗教家も、本物であるならば、絶対になさなければならないことなのです。

人の祈り方は、その人の生き方です。私たちは、深みにおいて祈ることによって超越の力の中に生きています。単にサラー(回教の一日5回の祈り)や祈祷式文というだけのことではないのです。黙想なのです。聖アウグスティヌスによれば、人生は、ただただ心の目を開き、神の姿を目にすることを目的としているのです。超越できれば、私たちはもっと人間的になることができます。なぜなら超越によって私たちはこの人生の目的を達成することができるからです。その手段は、自分自身を目的とするという誤りを犯していないならば、宗教が教えてくれるものです。具体的にいえば、待つこと、忍耐、静寂、そして特に今のように瞬時にコミュニケーションが図れる時代にあっては、沈黙です。[。。。]

私たちはサラーの祈りを唱え、キリスト教の祈りを唱えました。そして同時に瞑想のために沈黙のうちに座すこともしました。私たちはそれを心の祈りと呼び、回教徒はディカーと呼びます。その祈りにおいては心の豊かな貧困の中で、数多の言葉をただひとつの言葉へと凝縮していきます。この沈黙の中で、言葉にはただその方向を示すしかできない一つの普遍性に触れることができました。それは現実からの逃避ではなく、キリスト教も回教も両者が共に愛として知っている神の現実に浸ることです。この超越の中にある沈黙の経験によって、言葉には到底成し遂げることができないやり方で関係が変質させられていきます。愛の沈黙の中で共に忍耐すると新しいあり方で共に生きるようになるのです。
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覚えておきなさい。腰をおろし、背筋をピンと伸ばして身動きせずに座りなさい。眼を軽く閉じ、体をリラックさせて、しかし心はとぎすませて座りなさい。声を出さずに、心の中で、一つの単語を唱え始めなさい。私達は「マラナタ」という祈りの言葉を薦めます。同じ長さの4音節としてそれを繰り返しなさい。自分の唱えるその言葉に耳を傾けなさい。マラナタは、そっと絶え間なしに唱え続けなさい。何も考えたり、想像したりしてはいけません。霊的なことであろうと俗的なことであろうとです。色々な考えやイメージが浮かんできますが、それらは過ぎるに任せなさい。最初から最後まで、ただ自分の注意を謙虚に飾り気なしに、自分の選んだ言葉を信仰のうちに唱えることへ戻しつづけなさい。
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瞑想の後で
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“Heart-Knowing and the Jasmine Scent of Feeling Near to God,” THE SOUL OF RUMI: A NEW COLLECTION OF ECSTATIC POEMS, tr. Coleman Barks (
New York: Harper Collins, 2001), p.324.

    
スーフイ(回教の神秘主義者)たちは、それを
聞かせるべきではない者たちに分からぬように

心知と呼ぶ。でもそれは本当に心からのものだ。そこを
通って神は現れる。

意識が愛にあり、愛が神にある限りいかなる間違いも起こりえないし、口にされることもありえない。
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