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日本語監修センター
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定例瞑想会
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午後7時-8時
京都市左京区
北白川カトリック教会
The International Centre The World Community for Christian Meditation
St. Mark's, Myddelton Square
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England, UK International Office: +44 0207 278 2070
Email: mail@wccm.org
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The World Community for Christian
Meditation +
Weekly Internet Medit@tion Group
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Weekly Readings - 2007年2月18日
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物理的には他の瞑想者たちと隔たっているとしても、聖霊の中で一つとされている。毎朝、毎晩、瞑想のために30分間時間を取りなさい。可能であれば、同じ時間、同じ静かな場所で瞑想しなさい。瞑想が自分の一日の自然な一部になるからです。時間は十分に取りなさい。マントラを忠実に唱えなさい。そして聖霊の中で私達すべてを一つにする沈黙のネットワークの中に入りなさい。
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Laurence Freeman OSB, ASPECTS OF LOVE: On Retreat with Laurence Freeman
(London: Medio Media/ Arthur James, 1997), pp.84-86
聖ヨハネは言います、「愛は神に発するものである」と。愛するものは全て神の子供であります。神を愛するというこの経験は、私たちに備わる、人から愛されることができる能力に根ざしているものであり、またそれは子供に備わる大きな資質なのであります。子供は愛されたいと願います。それは一番自然なものであり、ひょっとしたら子供が全存在をかけて望むただ一つのものであるかもしれません。。。瞑想を通して回復するものは、人から愛されるというこの子供に備わる能力なのです。そしてそれはとりもなおさず、神の子供であるという、もっとも深く、もっとも真実な私たち自身の姿であるのです。私たちを癒してくれるものは、自分は、愛されたいと願っており、愛される必要があるという貧しさを受け入れている神の子供であるというこの知識です。この自己知識こそが私たちを癒してくれるのです。それも、自分の両親の元に生まれた子供として、夫と妻として、兄弟姉妹として抱える心理学的現実をも含む全人格において癒してくれるのです。ほとんどいつもそのことを考え、もがいているこの心理学的現実は、どうしようもなく私たちの中に確かにあるものですが、それが私たちのすべてであるなどということはありません。精神のたどる道と心理のたどる道との間には基本的な区別があります。私たちにとってもっとも深い存在証明は神の子としてのそれですが、それは、私たちは、自分の内側から癒しと再生の宇宙的権能を放っているのだということを発見し、知ることによるのです。
聖ヨハネが言っているように、神はこれまで一度たりとも見られたことはありません。つまり、神は私たちの外側にある物ではないのです。。。自分の外には何も存在していないという、自分という存在の、心と精神のあの水準にまでいかなければなりません。そこまでいくとわかります。私たちは、存在するあらゆるものとのかかわりの中で、霊的交友の中で、神の中にいるのだということが。私たち一人一人がそこへと招かれています。そしてそこへいく力が備わっているのです。だから瞑想の中では、神に関するあらゆる考え、そしてイメージを。。。自分の外にある「物」として打ち捨てるのです。神の姿は一度も見られたことはありませんが、互いに愛し合う私たちの中に住まっておられます。それがキリスト者の生活の全構造なのです。神は見られることはありませんが、互いに愛し合うならば、私たちの中で広がっていきます。そしてそこまでいくと、聖ヨハネが言うように、愛が完成されるのです。
。。。これまで考察してきた愛の諸相を見れば、愛が学びの場であることがわかります。私たちは愛することで愛する術を身に着けます。そして瞑想が、それを学ぶ一番の場なのです。[。。。]瞑想という経験の光を通して、私たちを創造し、私たちといつも一緒にあり。。。、私たちを癒し、教えてくれる。。。愛の大いなる均衡を保つ力を見ることができます。それは努力して手に入れたり、働いて稼ぎとるようなものではなく、いつも私たちとともにある愛なのです。瞑想を通して私たちの目が開かれ、この不均衡の真っ只中に、この気まぐれ、雑念の真っ只中にこの愛の力が常にあることが見えるようになります。私たちの雑念に満ちた瞑想の中にあっても、次第次第に深いところで平和の存在を感じ取ることができるようになります。そして瞑想をしているうちに自分を愛し、他者を愛し、そして神を愛することができるようになり、そして教えられます。あらゆる人間関係が、実は、ひとつの人間関係の側面にすぎないのだと。
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>>>>> 30分間瞑想
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覚えておきなさい。腰をおろし、背筋をピンと伸ばして身動きせずに座りなさい。眼を軽く閉じ、体をリラックさせて、しかし心はとぎすませて座りなさい。声を出さずに、心の中で、一つの単語を唱え始めなさい。私達は「マラナタ」という祈りの言葉を薦めます。同じ長さの4音節としてそれを繰り返しなさい。自分の唱えるその言葉に耳を傾けなさい。マラナタは、そっと絶え間なしに唱え続けなさい。何も考えたり、想像したりしてはいけません。霊的なことであろうと俗的なことであろうとです。色々な考えやイメージが浮かんできますが、それらは過ぎるに任せなさい。最初から最後まで、ただ自分の注意を謙虚に飾り気なしに、自分の選んだ言葉を信仰のうちに唱えることへ戻しつづけなさい。
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瞑想の後で
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Isaac of Neneveh, “Ascetic Treatises,” noted in THE ROOTS OF CHRISTIAN
MYSTICISM, Oliver Clement
(London: New City, 1995), p. 242
愛を見つけた人は日々絶えることなくキリストを糧として生きるようになりそれによって不死を得る。というのもイエスが言ったとおり「私の与えるこの愛のパンを食べる者は決して死にまみえることはない」(ヨハネ6.58)からである。幸いなるはイエスその人である愛のパンを食する者である。というのも、愛を糧とする者はキリストを糧とする者であり、、、ヨハネが証するように「神は愛である」(第1ヨハネ4.8)からだ。それゆえ、愛の中に生きる者は神から命の果実を受け取る。そしてこの世にあっても、復活の空気を呼吸するのだ。
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