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前週の栞

日本語監修センター
075-862-7114

定例瞑想会
日曜日
午後7時-8時
京都市左京区
北白川カトリック教会

The International Centre
The World Community
for Christian Meditation
St. Mark's, Myddelton Square
London EC1R 1XX
England, UK
International Office:
+44 0207 278 2070
Email: mail@wccm.org

The World Community for Christian Meditation +
Weekly Internet Medit@tion Group
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Weekly Readings - 2008
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物理的には他の瞑想者たちと隔たっているとしても、聖霊の中で一つとされている。毎朝、毎晩、瞑想のために30分間時間を取りなさい。可能であれば、同じ時間、同じ静かな場所で瞑想しなさい。瞑想が自分の一日の自然な一部になるからです。時間は十分に取りなさい。マントラを忠実に唱えなさい。そして聖霊の中で私達すべてを一つにする沈黙のネットワークの中に入りなさい。
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Laurence Freeman “Meditation,” JESUS THE TEACHER WITHIN (New York: Continuum, 2000), pp. 212-213

山の上の説教の中でイエスは物へのこだわりが私たちの悩みの大きな原因であると指摘しました。どうすれば、もっと快適になれ、個人的な苦しみを減らすことができるのだろうか?このことばかり考えているために、眼の前がかすみ、今、本当にしなければならないことが手につかなくなってしまいます。

だから言っておく、自分の命のことで何を食べようか、何を飲もうか、そして何を着ようかと思い悩んではいけない。命は食べ物より大事であり、体は衣服よりも大事ではないか。(マタイ625

思い悩むなと命じられる時、イエスは日々のもろもろの問題という現実を否定しているのではありません。不安を捨てなさいと言っておられるのであって、現実を捨てよと言っておられるのではないのです。思い悩まないようになるというのは大変むつかしいことです。。。[しかし]「集中力の欠如」した現代人の意識であっても静止し、もろもろのこだわりを超えていく生来の能力が備わっています。深層にいたれば、それ本来の明晰さを発見し平安のうちに一切の不安から自由になるのです。ほとんどの人が5つ〜6つのお気に入りの不安を抱えています。まるでほろ苦いチョコレートのようになめ始めると止まりません。それを取り上げられてしまうとおびえてしまうことでしょう。イエスは不安を手放すことの恐怖を乗り越えよと迫っておられるのです。それは平安それ自体に対して抱いている恐怖心なのです。瞑想するというのはイエスの教えを祈りに当てはめるということなのです。経験によって本当に心配から解放された心を選び取ることができることを証明できるのです。

とはいっても、すぐに頭を真っ白にし思うがままにあらゆる想念を追い払うことができるわけはありません。瞑想の中でも雑念に気をそらされ続けるのですが、それでいて雑念から自由になることができるのです。というのも、確かに最初は本当に少しではありますが、自分の意識をどこにおくかを選ぶことができるからです。次第に毎日の実践の鍛錬によってこの自由が強められていきます。短時間のうちにそうなるんだと考えるとすれば子供じみています。ずっと長い間雑念に悩まされます。雑念は旅の道連れのようなものでじきに慣れます。しかし我が物顔の振る舞いを許す必要はありません。マントラを忠実に唱え、雑念が入り込んでくる度にまたマントラに立ち戻り続けることを選ぶことで「意識を集中する」自由を鍛えていくのです。

ここでの選択というのはスーパーの棚から特定の銘柄を選ぶという意味ではありません。献身を選択するということです。マントラの道は信仰の道であって、エゴの権力の道ではありません。すべての信仰の行いの中には愛の宣言があります。信仰によってマントラの種子が愛の中で芽生えていくように大地を整えていくのです。自分の力だけでは命と成長の奇跡を創出することはできませんが、奇跡が花開くようにすることには責任があるのです。頭と心の平和に到達するためには、つまり沈黙と静止そして単純へといたるためには、「勝ち組」の意志ではなく、たゆまぬ意識の集中、つまり弟子としての師の愛に支えられた忠誠が必要とされているのです。
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覚えておきなさい。腰をおろし、背筋をピンと伸ばして身動きせずに座りなさい。眼を軽く閉じ、体をリラックさせて、しかし心はとぎすませて座りなさい。声を出さずに、心の中で、一つの単語を唱え始めなさい。私達は「マラナタ」という祈りの言葉を薦めます。同じ長さの4音節としてそれを繰り返しなさい。自分の唱えるその言葉に耳を傾けなさい。マラナタは、そっと絶え間なしに唱え続けなさい。何も考えたり、想像したりしてはいけません。霊的なことであろうと俗的なことであろうとです。色々な考えやイメージが浮かんできますが、それらは過ぎるに任せなさい。最初から最後まで、ただ自分の注意を謙虚に飾り気なしに、自分の選んだ言葉を信仰のうちに唱えることへ戻しつづけなさい。
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瞑想の後で
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from Simone Weil, “Forms of the Implicit Love of God,” WAITING ON GOD (London: Fount/HarperCollins, 1972), pp. 91-92.

善以外のなにものをも受け取らないようにする方法はただ一つしかない。単に抽象的にではなく、魂の全体で次のことを知ることである。まじりっけのない愛によって命を与えられていない人は、自分では動けない物体と同様に、この世界秩序の機構における単なる車輪に過ぎないということを知ることである。それが分かれば、あらゆることが神から直接やってくることがわかる。。。自分の活力を増大させてくれるものはキリストが義にかなった人々に感謝をささげるパンのようなものである。あらゆる打撃、傷、手足の切断が、キリストの手によって投げつけられる石のようなものである。パンも石もどちらもキリストからやってきて、私たちの内なる存在へと入り込み、キリストを私たちの中にもたらしてくれるのだ。パンと石は愛なのである。私たちはパンを食べ、そして石が、可能な限り肉の奥深くまで入り込めるように、石に対して自らを開かなければならない。仮に、キリストの投げる石から自分の魂を守る事ができるよろいを身に着けているのなら、それを脱ぎ、打ち捨てるべきなのだ。
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