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よくある質問
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質問:私は瞑想するのは好きなんですが、私にとってはとってもプライベートなことなんですよ。どうしてグループで瞑想しなきゃいけないんでしょうか。とても気が散るんですが、グループに参加しなきゃいけないんでしょうか。

答え:自分だけで瞑想することは大切なことです。そしてほとんどの場合、皆自分ひとりで瞑想しています。しかし多くの人にとって、自分だけだと規則正しく続けることは難しいものです。特につらいことがあったときなどは。ジョン・メインは、瞑想が創り出すコミュニティには重要な意味があると信じていました。グループの中での沈黙は、単独である場合よりも深いものであることがあります。グループが、それぞれが自分で実践しつづける心の支えそして励ましを与えてくれるのです。一緒に瞑想している人たちは、一緒に座っているというだけで、実際にはお互いについてほとんど何も知らないのに、深いところで互いに結び付けられていると思います。グループにはこういうはたらきがあるのですが、中にはグループのサポートがなくても自分だけで規則的に瞑想を実践している人もいます。こういうい人は、瞑想している時は、いつでも一人ではなく世界中の瞑想者たちと一つにされていることを知っている人でもあります。

質問:これは、超越的瞑想(transcendental meditation)というような他の瞑想法とか祈りとかとどう違うんですか。瞑想していると、どんな風に他人との関わり方が改善されるんですか。

答え:両方の質問に対する答えは、 ひとつ(unity) であることです。まず、ここで私たちがいっているキリスト教瞑想が、他の伝統とどこが同じでどこが違うのかを理解することが大切です。瞑想の中で ひとつ にされているということを、じっくりと考えることが大切です。霊の実践としての瞑想が他と異なるのは、単なるテクニックとして実践されるのではないというところです。テクニックとして行う瞑想と、信仰の鍛錬として行う瞑想との間には世界がまるごと飲み込まれてしまうほどの隔たりがあります。何でもテクニックという中で生活する私たちは、条件反射的に、瞑想を、覚えられたらすごいテクニックみたいに考えてしまいます。「よし、これを使って、どんなものが手に入り、どれくらい自分の行いが改善されるか試してみよう。役に立たなかったらやめちゃえばいいんだから」などと思いがちです。でも、瞑想を信仰の鍛錬と言うのには理由があります。瞑想には、信仰と堅忍という側面があるのです。多分、ここで言う信仰がどういうものなのか、それが本当に分かるまでちょっと時間がかかることでしょう。とりあえず、大雑把な言い方をするならば、信仰の鍛錬であれば、ただのテクニックという場合よりも耐え忍ばなければならないという思いも強まり、瞑想から最高の結果を得る可能性も高まるということができます。信仰が動機の場合、堅忍することがそれだけたやすくなります。
 瞑想がキリスト教であるのは、あなたがキリストを信仰しているからです。テクニックによってキリスト教になったり、仏教になったり、ヒンドゥー教になったりするのではありません。あなたが持ち込む信仰によるのです。だからこそ瞑想は、信仰のいかんによらず、一人一人が自分の信仰の旅路を完遂し、その真理を確証するかくも素晴らしい方法となるのです。しかも異なる信仰をもつ人々と、非常に深いところで霊的体験を共有することができるのです。「う〜ん、僕は自分の信仰が正しいと信じる。だから他の人の信仰は間違ってると信じる」というはひどい間違いです。論理的にまた知的いえば、そこで身動きできなくなります。しかし、霊の次元では 一つ を経験しますし、瞑想は、この 一つ へと導くものなのです。これはグループの中で瞑想しているとはっきりと知覚できる現実です。瞑想しているとき、言葉を交わしたり、身振りで何かを伝えたりなどするわけではありません。しかしより深い次元でのコミュニケーションが働いているのです。だから、誰かと一緒に瞑想すると、その人とは、他では経験しないような気安さで交わりの時をもつことができるのです。それは深い次元での一体感の故なのです。

"Coming Home: An Introductory Seminar to Christian Meditators, Resources for Presenters." Published and (C) Copyright 1999. The World Community for Christian Meditation. より。この文書は、著作権者の許可を得て使用しています。転載厳禁。

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