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The World Community for Christian
Meditation + ジョン・メインOSB著、"The Accuracy of Sacrifice," Moment of Christ (New York: Continuum, 1998), pp.113-114. 瞑想が私たち一人ひとりにつき付けてくる課題があります。瞑想をしていると、「神を探し求めるのかそれとも自分を求めるのか」という初歩的な贖いの問いかけに直面させられのです。この問を別な表現で言えば、「自分の限界を越えて自分の目的地を探し求めるのか、つまり、自分の力の及ぶ範囲の中でだけ自分を見極めようとするのか、それとも自分自身を越えて、神の中に、目的地を探し求めるのか」ということになります。私たち自身のエゴイズムが築き上げた限界を押し破ろうとすること、それが瞑想の本質なのです。 さて、私たちにとっての課題は、世界を拒絶することでも、自分を拒絶することでもありません。課題は、生贄をささげられるようになることなのです。生贄をささげるためには、神に何かを差し出さなければなりません。そしてユダヤの律法では、一つのもの全体がまるごとささげられたのでした。それはホロコースト、すなわち全燔祭のささげものと呼ばれていました。一かけらも残されることはありませんでした。すべてが神にささげられたのでした。それこそ瞑想が私達の人生に対して行なうことなのです。マントラを唱えると、つまり瞑想をすると、自分を完全に、まるごと、神に捧げることができるようになるのです。瞑想をすると、自分という存在のすべてを無条件に神に対して差し出すことができるようになるのです。それがマントラだけを響かせつづける理由なのです。時がくると、それすらも差し出すことができるようになります、なぜならばもう私達は瞑想の中ですべてを神に委ねきっているからです。私達は神の存在の中にある、そして私達は神の寛容のおかげで神の存在の中に置いていただいているのです。 瞑想の素晴らしさは、この自分を生贄とし自分を失うことの中で、神の存在が私達の存在となり、神の寛大さが私達の寛大さとなるところにあります。そして途中でめげることなく瞑想を続けていくと、自分をさらに完全に失うことができるようになります、つまり生贄がますます完全なものとなり、その結果寛大さが絶えず大きくなっていくのです。それが、瞑想の間中、最初から最後までマントラを唱え続けることがいかに大事かをこれほど頻繁に強調する理由なのです。何の思いも、言葉も、想像も、考えももってはいけません。ホロコースト、つまり全燔祭のささげものなのです。意識を神に差し出すこと、多分これこそ意識をもつ人間として私たちにできる最高のことなのではないでしょうか。意識を差し出すことによって私達は完全な意識を手に入れることができるのです。 これが、「人間の理解を超える神の平安が、あなた方の心と思いとをキリスト・イエスによって守るでしょう」と神の身近さを語る時の聖パウロの体験なのです。私達は、その平安を絶対的に探し求めるようにならなければなりません。中には、イエスが私たちに完全に身をゆだねるよう招いているなどと語ることは賢明ではないと考える人もいることでしょう。また中には、そういう話を聞くということ自体が専門家に限定されていることだと考える人もいることでしょう。しかし私に理解できる限りにおいて、イエスは私たち一人ひとりに、自分の十字架をとり、カルバリまでイエスの後を追い、イエスとともに身を捧げ、そしてイエスとともに父の永遠の愛の中へと入り込むように招いているのです。 _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ 詩篇116:6-12、ニュー・アメリカン・バイブル(Nashville: Catholic Bible Press, 1987),p.637.(私訳) 主は素朴な者を守ってくださる
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