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The World Community for Christian Meditation + とても価値ある、キリスト者の生活に関する聖ベネディクトのビジョンの一つにvia media即ち中道というものがあります。実際、「規則」は、その中心的文章の一つを構成するたった3つの単語に要約することが出来ます。Ne quid nimis (第64章)、つまり 何事も過剰を排す というのです。この言葉は、社会的なものであれ宗教的なものであれ、全ての狂信主義の放棄を要求します。ベネディクトの洞察は、まったく素朴な表現ではありますが、非常に深いものです。狂信主義の本質は、自分を相手の中に失ってしまうことへのエゴの恐怖であり、R.D. Laingが現実の「爆発的流入」と呼ぶものが入り込まないようにしようとするエゴの自己防衛なのだ、とベネディクトは見抜いたのです。だからベネディクトは、あの現実に対して十分に完全に成長していく道を単純で具体的な言葉で修道層達の前に示したのです。即ち、日々の更生としての祈りの揺らぎない堅忍と忠誠の誓約です。ベネディクトが用いた言葉自体の中にこのビジョンの本質が含まれています。via media(中道)という言葉は、meditation (瞑想)同様 medius 即ち中央または中心という言葉から派生しています。ここにこそ、私達は根をおろさなければなりません。ここにこそ私達は行脚の末にたどり着かなければならないのです。いや実は、私達はここに存在しているのです。meditare、英語ではmeditate(瞑想する)ですが、この言葉自体も求心的であるこの道筋の辿り方を示しています。そのもともとの意味は何かを繰り返し繰り返しひっくり返すこと、繰り返すことです。もう皆さんもご承知のように、私達を存在の中心へと導きそして根をはらせてくれるものはマントラを忠実に唱えつづけることなのです。 真剣にこの行脚を始め、この行脚を続けるぞという一回目の誓約(これからも繰り返しすることになります)をするまでは、いくら伝統の重みがあるとはいっても、教義としてはいかがなものかという思いをいだくことでしょう。私達が内的に生まれ変われるかどうかは静止にかかっている、そして私たちの活力と創造性は一定不変でいられるかどうかで決まるというのはもちろんパラドックスです。しかし恐らくはそれゆえにこそ、現に瞑想している人というのは、究極のところで活力を奪い不満を引き起こすものは雑念と不安であるということを経験した人々なのではないでしょうか。私たち自身の内なる静止および内なる現実、それこそが実は内住くださるイエスの臨在なのですが、それを回避してしまうから、本来なら喜びと自由があるべきところに不安が生まれてしまうし、本来ならば自分の本当のアイデンティティの広がりがあるべきところに偽りの個性の監獄が出来てしまうのです。
だから、瞑想の中で、恐怖、欲望、心配という不安なエゴから離れ、あのおかたの方に向かう時、イエスの中にいる自分を本当に見出すのです。しかもそれが私たちの存在の根源において、父の愛のもとでできるのです。この行脚は、自我から離れる勇気がなければなりません。Paul Tillichの言葉を使えば、「自分のアイデンティティのフロンティア」を超えない限り何も見つからないし、どこにも行くことは出来ません。このために、そしてまた私たちが召されている誓約の深さが絶対的なものであるが故に、瞑想とはまったく字義通りに信仰の祈りなのです。そしてもし私達がきっちりと見極めておくべき概念が一つあるとするならば、それは信仰の本当の意味です。イエスの召喚に一人一人が答えることの重要性、つまりイエスの内住くださる御霊の神秘に何一つかける所のない意識全体をふりむけることの重要性についてお話ししました。また、私たちの心の中で、その御臨在はまったく現実であり、力強いものであるし、またその結果得られる変身は実にすばらしいものでありますが、それが力づくで私たちに迫ってくることなどないということも申しました。なぜならそれは愛だからです。私たちの心の扉をおしあけたりはしないのです。私たちがそれに対して心を開かなければならないのです。祈りがすばらしく美しいのは、私たちの心も、一輪の花が開くのと同じように自然に開いていくところです。ちょうど、あるがままにしておいてやれば花が開き咲き誇るように、私たちも単純に在るようになれば、沈黙し、沈黙の中に留まりさえすれば、私たちの心もまた開かずにはいられないのです。御霊が私たちの存在全体の中にさしこまずにはいないのです。私たちが創造されたのはこのためなのです。
驚きの中の驚きは私たちの中にいます神です。これに出会うと訊かずにはいられません。「どうすればもっと開けるのでしょうか?」詩人のリルケはアネモネの大きく開いた星を見て同じ問いに胸を打たれました。彼は少しずつ朝の光に向かって花弁を開いていく花の力に驚きます。その花の静止した星の中に漲る限りない歓迎の力は、時に光の豊かな完全さに圧倒され、日没がお休みの声をかけても、広く開ききった花弁を閉じこむことがほとんど出来なくなってしまうこともあります。そして私達は、リルケ同様に尋ねます。いつになれば私たちもあんなふうに開いて受けとめるようになるのだろうと。 |