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The World Community for Christian
Meditation + 希望は何かを欲することではありません。何かについて白日夢を見ることでもありません。空想の反対のものです。希望とは意識の本質的な態勢、つまり意識の向かう方向です。それは外へと向かうことなのです。希望を抱いているということは、私たちが、私たち自身よりも大いなる何かの不可欠な一部であるということに気づき、そして私たちは、その完璧な実在のエネルギーをもって生きているということを発見することなのです。希望とは、たとえそれがどれほど困難なことであろうとも、自己を外へと向け続けることなのです。絶望とは、内向の力に対する意識の降伏です。希望は絶対的で普遍的でそしてまったく無条件の美徳です。事態が好転している時だけ希望的であるなどということはできません。事態がいかなる進展を見せようとも、また自意識の中へと回帰しそこに沈溺していたい、つまりエゴの安全な壁の中に閉じこもりたいという想いがいかに強くなろうとも希望をもち続けることが、そしてある意味では、希望をもつことを選択することが必要なのです。希望とは深い祈りから生まれてくる美徳の一つです。深い祈りの中においてこそ、私たちは自己から神へと、私たちとは「別なる」ものでありながら、自分の家族よりも、あるいは他の誰よりも私たちが似せられている神へと向かうのです(訳注:「別なる」の原文は”other”だが、“ ”でくくることで、元々「別なる」の意味をもつholy(聖なる)を連想させようとしていると思われる)。希望とは完全にくつろぎたいという切望です。それが私たちの存在の持つ最も強い切望なのです。 愛が生まれるためにはある程度の希望が必要です。絶望している人は愛を見ることも愛の機会に応えることも出来ません。しかし愛は、その最も強い瞬間においては、その刺激によって、大きく希望を開花させ、また大きく膨らみ意識全体を覆い尽くしてくれます。希望をもっているということは私たちの命の中の聖霊を意識しているということです。希望をもっているということは、霊感を受ける(訳注:原文はto be inspired)ことであり、それは私たちの内部にいます霊(訳注:原文the Spirit)の絶え間ない注入を受けること(訳注:原文”in-spir-ation”中-霊-化)を意味します。希望の中に生きるということは私たちの生活の中で絶え間なしに聖霊を呼吸する喜びを意味するのです。これは、イエスが復活後に弟子達のもとに現れ、彼らの上に息を吹きかけたあの瞬間を持続させることにほかなりません。このイエスの、そして聖霊の息吹を私たちの中へと取り入れることこそが賜物なのです。だから希望は感謝を意味します。私たちが永遠に感謝する賜物は決してとまることのない祈りの賜物です。マントラを絶え間なしに唱えることで私たちは、エコロジーのバランスを失ってしまった生態系の中への純粋のエネルギーの絶え間ない注入のようなこの祈りの中へと入ることができるのです。そしてこの神の純粋の愛、即ちイエスが送ってくださる聖霊の、心の中への注入によって、自分の存在の純粋さを再獲得し、自分の基本的善性を思い出すのです。 stanza 4 from "The Living Flame of
Love," JOHN OF THE CROSS: SELECTED WRITINGS, ed. K. Kavanaugh OCD (New York:
Paulist Press, 1987), p. 294. とても優しく、愛をもって あなたは私の心の中で目覚める そこにあなたは密かに住まいし そした甘い吐息の中で 善と栄光に満たされて あなたは優しく私の胸を愛で膨らます _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ この栞はあなたの個人的な使用のためだけに提供されています。(引用される文書は色々な理由で繰り返されることがあります。)将来利用するためにハードディスクに保存してもいいですし、別な機会に読んだり、他の人と共有するためにプリントするのもよいでしょう。
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