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Weekly Readings ? 2002年8月4日
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物理的には他の瞑想者たちと隔たっているとしても、聖霊の中で一つとされている。毎朝、毎晩、瞑想のために30分間時間を取りなさい。可能であれば、同じ時間、同じ静かな場所で瞑想しなさい。瞑想が自分の一日の自然な一部になるからです。時間は十分に取りなさい。マントラを忠実に唱えなさい。そして聖霊の中で私達すべてを一つにする沈黙のネットワークの中に入りなさい。

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Laurence Freeman OSB, "Reverence," LIGHT WITHIN (New York: Crossroad, 1989), pp. 92, 94-95.

敬虔な人というのはそうでない人よりも自意識が強いものですが、もし私達が自分の自意識について正直であるならば、それが、自分の宗教生活の中に、畏敬の念がどこか欠けていることと結びついていることが見えてくるはずです。いや、実際、私達の宗教生活のなかでも最も神聖な瞬間に、私達の敬虔さというものは恥ずかしいほどにうわべだけのものとなっています。教会にあるせわしなげで騒々しい、らしくない雰囲気はノンクリスチャンがしばしば指摘するところです。例えば、静かになる時がないとか、動きのやむ時がないということがしばしば指摘されます。また、神に自分のほしいものをおねだりすることに費やされる時間が多いことも指摘されます。

決して、自分の席の中で絶対に動いてはならないとか、言葉が礼拝の内実を強めてくれるものではないなどということを言ってるのではありません。ただ<略>瞑想をするようになると礼拝に対する考え方が変わってきます。というのも瞑想は、自分の体験の中から私達が礼拝している神は確かに臨在しておられること、そして私達が礼拝しているのは神の御臨在そのものであるということを教えてくれるからです。 瞑想は、私達の信仰生活をより敬虔なものにしてくれます。なぜならそれは、内住する神の臨在を体験することによって、神の臨在を礼拝するのは神の臨在の中でのことなのだということを教えてくれるからです。私達が神の中にいるのとまったく同じように、神は私達の中にいます。神の意識が私達の意識と相互に貫きあう中で、自分が体験的に理解されるが故に自分も体験的に理解するのです。自分が体験的に理解し、かつ理解されるという状況において最も自然な反応は敬虔なる沈黙です。沈黙はより深い相互知識へと導きいれてくれるのです。<略>

私達は本当に多くの言葉を使います。同じ言葉、同じ考えを一日に何度も繰り返し耳にしますのでやがて何も感じなくなってしまいます。しかし大勢の人々が覚えていることでしょう。ジョン神父が読むと聖パウロの言葉が、まるで始めて耳にするみたいに聞こえてきたことを。あれこそ不思議でした。不思議がないと、私達はすぐに忘れてしまいます。今こうしてお話ししている現実が本物である、ここにあるということを。敬虔と不思議は、現実の臨在に直接触れない限り生まれてこないのです。そうでないと、私達は間接的接触の次元に閉じ込められてしまって、それについて語ったり、それについて考えたりしかしていません。そうなると、必然的に自分の話し方や、表現の仕方や、人にどんな印象を与えるかに自意識過剰なこだわりをもつようになってしまいます。そこから宗教的尊大さが生まれてきます。そしてその次は、理屈っぽくなったり非難がましくなったりするのです。これが敬虔さを失った結果陥る宗教者にとっての大きな呪縛であり傾向なのです。

しかし尊大さから敬虔への道はとても単純です。私達は神との直接的接触を作り出す必要はないのです。もうすでになされているのです。それが受肉、即ち肉とされた言葉なのです。この大いなる意識に入ろうと議論を交わす必要などありません。もうすでに私達の中に内住してくださっているからです。それも議論によってではなく愛によって。 瞑想とは、単純にそれを知ることなのです。
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覚えておきなさい。腰をおろし、背筋をピンと伸ばして身動きせずに座りなさい。眼を軽く閉じ、体をリラックさせて、しかし心はとぎすませて座りなさい。声を出さずに、心の中で、一つの単語を唱え始めなさい。私達は「マラナタ」という祈りの言葉を薦めます。同じ長さの4音節としてそれを繰り返しなさい。自分の唱えるその言葉に耳を傾けなさい。マラナタは、そっと絶え間なしに唱え続けなさい。何も考えたり、想像したりしてはいけません。霊的なことであろうと俗的なことであろうとです。色々な考えやイメージが浮かんできますが、それらは過ぎるに任せなさい。最初から最後まで、ただ自分の注意を謙虚に飾り気なしに、自分の選んだ言葉を信仰のうちに唱えることへ戻しつづけなさい。
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瞑想の後で
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T.S. Eliot, "Little Gidding," FOUR QUARTETS (New York: Harcourt Brace, 1971), pp. 50-51.

どんな季節であれ、どんな時間であれ、

どこから出発して、どんな道筋をたどろうと

仮にこちらにやって来たならば、

それはいつも同じ、あなたははたらきを止めなければならない

分別と考えの。あなたがここにいるのは、検証のためでも、

自分に教えるためでも、好奇心を満たすためでも

報告するためでもない。あなたはひざまずくためにここにいるのだ

ここは祈りが常に満たされてきたところ。そして祈りは

祈る心の意識の働きである言葉の配列や祈りの声の音

を超えるものなのだ。

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