トップ瞑想の栞

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Weekly Readings ?2002
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物理的には他の瞑想者たちと隔たっているとしても、聖霊の中で一つとされている。毎朝、毎晩、瞑想のために30分間時間を取りなさい。可能であれば、同じ時間、同じ静かな場所で瞑想しなさい。瞑想が自分の一日の自然な一部になるからです。時間は十分に取りなさい。マントラを忠実に唱えなさい。そして聖霊の中で私達すべてを一つにする沈黙のネットワークの中に入りなさい。
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John Main OSB, "The Christian Crisis," THE PRESENT CHRIST (New York: Crossroad, 1991), pp. 75-77.

霊的な旅路においては走ることより静止していることの方が多くのエネルギーを必要とします。ほとんどの人々は、目覚めている時間のほとんどを一つのことから別なことへとせわしなく動いてばかりいるので静止と沈黙を恐れているのだと思います。初めて静止に直面する時、一種実存的恐慌状態に陥ることがあります。しかしもし、この沈黙に立ち向かう勇気を奮い立たせることができればあらゆる理解を超えた平安の中に入るのです。これは、バランスのとれた安定した社会の中での方が覚えやすいことであることは明らかです。騒然とし、混乱した世界には、人を誤らせるような声が、私達の注意を引き寄せる呼び声が実に多くあります。

しかしキリスト教のビジョンは、正気を保ち、極論を退け、外部から私達に押し付けられた自分自身に関するイメージに単に反応するのではなく、自分自身になる勇気をもち続けるということに関してはまったく妥協をいたしません。そしてキリスト教のビジョンは、こういうことがただ単に可能であるばかりではなく、それを成し遂げるのに必要な資質が与えられていることが、イエス・キリストの贖いの愛の結果として私達の心の中におかれていると高らかに宣言しているのです。キリスト教のメッセージはキリストの無限の寛大さの故に、無限の希望のメッセージなのです。<略>

この内側の旅路、自分自身の心への、私達の中に内在下さるキリストへといたる旅路をたどるのに必要な力に限界設けるとするならば、それは自分を卑しめることです<略>。この旅路に向かう活力の源は無尽蔵なのです。聖パウロはこう言っています。「それは神が死者の中からイエスを引き上げる時に使った力そのものに匹敵する」と。この力は、キリストの存在の根源において行使されました。そしてキリストの臨在は私達人間の存在の根源に見出されるのです<略>。存在の奥深くでキリストに開かれている愛の集中の中に入るとはじめてわかります。この命が創造の全体のエネルギーである、創造主のエネルギー、愛のエネルギーであることが。

瞑想の体験の中で一人ひとりが自分で学び取らなければならないことに行脚に必要な力は実際無尽蔵にあるということです。自分の体験からそれを知るのには信仰をもって一歩踏み出しさえすればよいのです。胸に刻みつけておくべき大切なことは、おぼつかない一歩であっても実際に踏み出された一歩は、想像の中で行う無数の行脚よりも価値があるということです<略>。その力は私達の中に潜んでいます。それも、私たちの必要をはるかにしのいで、一度それに触れるや、自分の中から一気に引き出され、御国そのものである現実の中へと引き入れられてしまうほどに。

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覚えておきなさい。腰をおろし、背筋をピンと伸ばして身動きせずに座りなさい。眼を軽く閉じ、体をリラックさせて、しかし心はとぎすませて座りなさい。声を出さずに、心の中で、一つの単語を唱え始めなさい。私達は「マラナタ」という祈りの言葉を薦めます。同じ長さの4音節としてそれを繰り返しなさい。自分の唱えるその言葉に耳を傾けなさい。マラナタは、そっと絶え間なしに唱え続けなさい。何も考えたり、想像したりしてはいけません。霊的なことであろうと俗的なことであろうとです。色々な考えやイメージが浮かんできますが、それらは過ぎるに任せなさい。最初から最後まで、ただ自分の注意を謙虚に飾り気なしに、自分の選んだ言葉を信仰のうちに唱えることへ戻しつづけなさい。
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瞑想の後で
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"The Monks Callistus and Ignatius: Directions to Hesychasts," 心の祈りに関するフィロカリア THE PHILOKALIA ON PRAYER OF THE HEART tr. Kadloubovsky and Palmer )より(London: Faber and Faber, 1992), pp. 257-58.

聖イサクは言っています。「外なるものによって引き起こされた愛は炎が油で供給される小さなランプのようだし、また、雨に供給される、雨がやんでしまえばその流れがとまってしまう小川のようなものだともいえる。が、その対象が神である愛は、大地からほとばしり出る泉のようなものである。その流れは決してとまることがない。というのも神ご自身がこの愛の源であり、また決して減ることのないその糧食であるからだ。
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日本語のWeekly Readings (瞑想の栞)翻訳・監修責任
WCCM
京都グループ 黒宮康明
E-mail
blackeagle@earlysummer.org