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日本語監修センター
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定例瞑想会
日曜日
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水曜日
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The International Centre The World Community for Christian Meditation
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The World Community for Christian Meditation +
Weekly Internet Medit@tion Group
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Weekly Readings-2002年10月6日
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物理的には他の瞑想者たちと隔たっているとしても、聖霊の中で一つとされている。毎朝、毎晩、瞑想のために30分間時間を取りなさい。可能であれば、同じ時間、同じ静かな場所で瞑想しなさい。瞑想が自分の一日の自然な一部になるからです。時間は十分に取りなさい。マントラを忠実に唱えなさい。そして聖霊の中で私達すべてを一つにする沈黙のネットワークの中に入りなさい。
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Laurence Freeman, OSB, "Dearest
Friends(親愛なる友へ)," The WCCMInternational Newsletter, October 1997, pp.
2-7.
聖アントニーが、かつて修道僧たちに、それぞれが死の瞬間に直面することになる裁きの日について語ったことがあります。アントニーは、あなたたちは、どれくらい私のように、あるいは他の砂漠の偉大な老師達の誰かのようになれたかということで審判を受けるのではない、一体どの程度にまで真実の自分になったかということで審判を受けるのだと言いました。人間存在の目標そして意味としての霊的清浄(holiness)は、すぐに気づく香りのようなもので、多くの人々にそなわっていることに気づきます。霊的清浄には年齢や文化、そして宗教の違いを超える普遍性があります。それは特定の銘柄の鍛錬に固有の産物というものではありませんので、いくら個々の宗教なり教派なりが独り占めにしようとしたところで、霊的清浄それ自身が、そのような試みを愚かしいものとして無視してしまいます。その普遍性は、霊的清浄は、本来の自分になった人々の中にはっきりとそれと感じ取れるところにあります。<略>
人生の実に多くが記憶から消えていくようです。私たちを苦しめる問題も、あるいは胸躍らせる快楽も、まったく没頭してしまう計画も、はたまた命をも閉じさせてしまいそうな癒し難い悲しみも、すべてが時によって和らげられていきます。[しかし]、それが起こった時にはさほど感情的に圧倒されるようなことはないくせに、いつまでも消えていかない経験もまたあります。<略>そういう経験を振り返ってみると、多くの場合に、普段、覆いかぶさって見えなくしている表皮が静かにそしてそっと剥ぎ取られ、自分が本当はどういうものなのか、実は自分は何者なのかということが明らかにされます。この気づきにはとどろくばかりの雷鳴も、神秘的な大見出しもありませんでした。しかしそれは本当のニュースでした。そのニュース価値は朝刊と共に色褪せるということはありませんでした。こういうものが、私達の人生の風景を入れ替え、それ以後の人生において聴き方そして話し方を変えてしまう 静止 のもたらす地殻変動なのです。こういうキリストの顕現の瞬間は、忘れることはありません。というのも、まったく説明はつけられないのですが、そういう瞬間は不意に訪れてきたにも関わらず起こってみると自分の中でその瞬間に対する備えがちゃんとできていたからです。そしてそれが起こった時には、私達は確かに目覚めていました。多分、自分ではそれとは気づかなかったのですが、[自意識に対して]死んだ瞬間だったのでしょう。
たとえば、子供のころ学校から帰ってくる途中、当時の私には身も心も溶けてしまいそうなほど魅力的な外国切手を展示しているお店のウインドーのところでしばしば立ち止まっていたものでした。ある日、私の家の知り合いの小父さんが通りかかり、挨拶してきたので、それまで夢中で忘我状態で見とれていた私は、現実に引き戻されてしまいました。その翌日、いつものように学校の帰り道に同じウインドーの前で立っていたら、同じ小父さんが通りかかり、面白そうに、昨日からずっと立ってるのかいと尋ねてきました。言葉で説明することは出来ないのですが、しかしまったくなじみ深い何かが私の中でぱっと光りました。そしてそれは今日この日にいたるまで私の中にあります。それは、一つの気づきです。まったく不意をつくものでありながら恐れを抱かせないもの、つまり私達は、自分の世界ばかりではなく、他者の世界にも実在しているのだという知識です。そういう瞬間をどう言い表そうと、――そしてそれは、私達の意識の成長を際立たせるものであり、実はごくありふれたものなのですが――自分は実在しているということの、私達に必要な証明なのです。自分は実在しているのだということ。そしてその証明が十分に深く沈みこんだ時、実存の意味は霊的清浄における成長なのだと気づき始めるのです。
霊的清浄は音楽のようなものかもしれません。それに固有な言語以外では表現できないのですが、しかし誰でもが聞き、鑑賞することができる普遍的な言語なのです。私達の社会のように、宗教的な言葉や慣わしが、共通の、一つにまとめ上げる言葉というよりは、あまりにも特殊化した方言になってしまったところでは、この霊的清浄という音楽は特に重要です。それによって私達は、友情の中で、そして人間性の本質は善であるという共通の信念の中で一つにむすばれるのですから。<略>
聖ベネディクトは「優れた仕事の器」に関する章の中で、修道僧たちに、本当にそうなる前に霊的に清浄であると呼ばれたいと思ってはならないと警告しています。もちろん、ここで皮肉なのは、本当に霊的に高められるともはや霊的に高いなどと言われたいとは思わなくなるということです。いや、どのようにも呼ばれたくなくなるものです。他の人々が自分を「尊敬」すべきだとか、自分のことを良く思い、ほめるべきだなどと思っている間は、まだまだなのです。<略>霊的成長は、「ただお一人の神であるお方からやってくる栄誉」を大事にすることによって達成されるのです。大事にするということは、愛すること、そちらに向かうということです。神からやってくる栄誉とは、私達の真実の性質のもつ威厳であり、私達の本質に備わり、誰にも奪うことの出来ない善性のことです。それがあるから、私達は全員が最後には赦しをいただくことが可能になるのです。<略>
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>>>>> 30分間瞑想 <<<<<
覚えておきなさい。腰をおろし、背筋をピンと伸ばして身動きせずに座りなさい。眼を軽く閉じ、体をリラックさせて、しかし心はとぎすませて座りなさい。声を出さずに、心の中で、一つの単語を唱え始めなさい。私達は「マラナタ」という祈りの言葉を薦めます。同じ長さの4音節としてそれを繰り返しなさい。自分の唱えるその言葉に耳を傾けなさい。マラナタは、そっと絶え間なしに唱え続けなさい。何も考えたり、想像したりしてはいけません。霊的なことであろうと俗的なことであろうとです。色々な考えやイメージが浮かんできますが、それらは過ぎるに任せなさい。最初から最後まで、ただ自分の注意を謙虚に飾り気なしに、自分の選んだ言葉を信仰のうちに唱えることへ戻しつづけなさい。
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瞑想の後で
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The Shvetashvatara Upanishad in THE UPANISHADS(ウパニシャド), tr. byEknath Easwaran
(Tomales, CA: Nilgiri Press, 1995) p. 219.
火は、ちゃんとそこにあるのに、火打石が/別な火打石に当たるまで目には見えない/火打石の中に隠れている。主もまたしかり/その体の中に隠れておられる/主が姿を現されるのはマントラによる。自分の体を受け手の火打石となせ/マントラを打ちつける方の火打石となせ/そして主に顕現したいただくのだ、、、。ゴマの種子の中の油のように、クリーム/の中のバターのように/泉の水のように、火打石/の中の火のように、愛の主もまた住んでおられる。
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