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定例瞑想会
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The World Community for Christian
Meditation +
Weekly Internet Medit@tion Group
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Weekly Readings-2002年10月20日
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物理的には他の瞑想者たちと隔たっているとしても、聖霊の中で一つとされている。毎朝、毎晩、瞑想のために30分間時間を取りなさい。可能であれば、同じ時間、同じ静かな場所で瞑想しなさい。瞑想が自分の一日の自然な一部になるからです。時間は十分に取りなさい。マントラを忠実に唱えなさい。そして聖霊の中で私達すべてを一つにする沈黙のネットワークの中に入りなさい。
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John Main OSB, "Who is at the Center?" WORD MADE FLESH (London: Darton, Longman,
Todd, 1993), pp. 7-8.
瞑想の本質は、一歩下がって神に生活の前面に出ていただくことです。いつの間にか自分を世界の中心にすえつけてしまっているということはしばしば体験するところです。突然そのことに気づくということも時々あります。現実が自分の周りを回っていると思い込んでいることに気づくのです。私たちは、自動的に、状況や人々は、自分にどんな影響をあたえるのかという観点から考え、反応しています。この自己中心的な見方それ自体が問題なのではありません。実際上必要なことでもあります。問題は、どこまでそうなのかをわきまえているのかということです。もし仮に、自分が世界の中心であると想像したり、それを当たり前のことだと思ったりしていると、いかなる状況も、人も、いや自分自身すらありのままの姿でみることは出来ません。なぜなら、もちろん、真実は自分が世界の中心ではないからです。神が中心なのです。
瞑想は、自己中心から離れ、神中心へと歩みだすことです。その一歩を踏み出すと、世界の中での自分の場所が、どこにいるべきか、そして本当はどこにいるのかが見つかります。そしてその結果、あらゆる関係が、お互いとの関係、環境およびあらゆる被造物との関係、そして神との関係が正しい秩序に整理されます。そのためにはどこかからはじめなければなりません。まずは自分から、それも自分と沈黙できるようになることからはじめなければなりません。これが単純に意味することは、自分の行いや、考えによって自分を定義するのではなく、ただ在ることが出来るようにする、自分自身となることが出来るようにするということです。一つの修養として、また実践として、瞑想は私たちを、マントラを静止のうちに、また沈黙のうちに反復することを通して、この単純に在るという状態へと近づけてくれるのです。
マントラを唱える目的は、そのことに意識を集中することです。マントラを唱えるうちに浮かんでくる何かを考えたり、ひらめきを求めたりはしていません。そういうものは消えるにまかせ、意識に響く唯一つの音がマントラであるという、ますます深まる沈黙の中に入るのです。マントラそれ自身が、それを唱えることに必要な忍耐を教えてくれるでしょう。それはまた、不可欠な謙虚さも教えてくれるでしょう。瞑想の中では、神をわがものとしようとしたり、神についての深遠なる悟りに到達しようとしたりしているのではありません。単純に、私たち自身の創造という贈り物を、今現在可能な限り豊かに完全に受け容れ、精一杯応えようとしているのです。そうするために、静止できるように、沈黙できるように、そして真実謙虚になることを学ぶのです。
日常語で語れば、瞑想の本質はエゴを捨てるということです。現に起こりつつあることをエゴによって見ようとはしていません。エゴの視野はその自己中心性によって限られています。何の限界もなく見える目は、それ自体では何も見えない目です。瞑想のパラドックスは、自分で見、そして我がものとしようとすることをあきらめたとたんにあらゆるものが見え、すべてが自分のものとなるところにあります。
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>>>>> 30分間瞑想
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覚えておきなさい。腰をおろし、背筋をピンと伸ばして身動きせずに座りなさい。眼を軽く閉じ、体をリラックさせて、しかし心はとぎすませて座りなさい。声を出さずに、心の中で、一つの単語を唱え始めなさい。私達は「マラナタ」という祈りの言葉を薦めます。同じ長さの4音節としてそれを繰り返しなさい。自分の唱えるその言葉に耳を傾けなさい。マラナタは、そっと絶え間なしに唱え続けなさい。何も考えたり、想像したりしてはいけません。霊的なことであろうと俗的なことであろうとです。色々な考えやイメージが浮かんできますが、それらは過ぎるに任せなさい。最初から最後まで、ただ自分の注意を謙虚に飾り気なしに、自分の選んだ言葉を信仰のうちに唱えることへ戻しつづけなさい。
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瞑想の後で
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Simone Weil, "Forms of the Implicit Love of God," SIMONE WEIL READER,
ed. G.Panichas (Mt. Kisco, NY: Moyer Bell, 1977), pp. 470-71.
私たちは非現実性のそして夢の世界に住んでいる。単に頭の中だけではなく、魂の想像力豊かな部分で、自分が中心であるという自分の想像の世界での位置をあきらめ、打ち捨てるということ、それは現実であり、永遠であるものへと目覚め、真実の光を見、真実の沈黙が聞こえることを意味する。すると感性の根の部分で、感覚への刺激、心理学的刺激の即時的受け止め方に一つの変化が起こる。その変化はたそがれ時の街道で起こる変化にたとえることが出来る。最初、身をかがめた人と見えたものが実は一本の木であったと突然に気づいたり、幾人かの人のささやき声と思ったものが木の葉のざわめきであると突然きづく。同じ色が見えている。同じ音が聞こえている。なのにもう同じではない。
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