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日本語監修センター
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定例瞑想会
日曜日
午後7時-8時
京都市左京区
北白川カトリック教会

水曜日
午後6時半-7時半
京都市上京区
西陣カトリック教会


The International Centre
The World Community
for Christian Meditation
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International Office:
+44 0207 278 2070
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The World Community for Christian Meditation +
Weekly Internet Medit@tion Group
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Weekly Readings -- 2002年11月10日
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物理的には他の瞑想者たちと隔たっているとしても、聖霊の中で一つとされている。毎朝、毎晩、瞑想のために30分間時間を取りなさい。可能であれば、同じ時間、同じ静かな場所で瞑想しなさい。瞑想が自分の一日の自然な一部になるからです。時間は十分に取りなさい。マントラを忠実に唱えなさい。そして聖霊の中で私達すべてを一つにする沈黙のネットワークの中に入りなさい。
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John Main OSB, "The Unreality of Fear," THE HEART OF CREATION (New York:Continuum. 1998), pp. 24-25.から抜粋

恋している時の精神状態と、怯えていたり他から切り離された所にいる時の心の構えとの違いは、誰でもが知っていることです。愛は生きている喜びを呼び覚まします。人生の多様性、意外性、色彩を呼び覚まします。この愛の心が自分の内面で広がる余地を大きくしてやればやるほど、それだけ他者中心的になっていきますし、ますます自分の完成が、自己実現がその相手の中に見えるようになります。私たちが、自意識を捨て去り、私達の本当の意識を発見するのは、この体験の中においてのことです。もう一つの本当の意識と接する中でそれは発見されるのです。無私無欲に愛の中で働く力はこの遭遇の中から生まれてくるのです。

福音を読むと、ある選択を迫られていることが分かります。選択肢は愛と恐怖です。病気や、戦争や飢饉への恐怖であれ、あるいは超自然的な、律法に定められた儀式によってなだめなければならない怒りに満ちた復讐の神々への恐怖であれ、恐怖というものは破壊的であり、精神をむしばむものです。野蛮世界と文明世界の違いは、野蛮は恐怖の上に繁栄するのに対し、文明は、活動力、エネルギー、活力、独創性を生み出す愛の上に繁栄するところにあります。野蛮なエネルギーは否定的なものです。その推進力は破壊的であり、それが生み出すものは戦争です。キリスト者の生活の生み出すものは平和です。

瞑想にコミットするということは、神の救いの愛の平和に心を開くことです。それを全面的に受け入れること、自己執着をすてさること、自分を与えることへのコミットメントなのです。マントラを唱えている間に自分のことを考えていることはできません。想像の世界へと引き戻すものは自己妄想にほかなりません。だからマントラを唱えるのをやめてしまっていることに、つまり心が漂っていることに気づいたら単純にマントラと、マントラと共にある現実にもどらなければなりません。つまり、私達の心の中にいます神へと立ち戻るのです。言葉を変えるならば、自分を越えて神の中へと私達を推し進めてくれる信仰へと立ち戻るのです。この自己超越が私達の救いであることはみなが知っています。根源的に私達はみな知っているのです。心の沈黙の中でこの救いに向わなければならないことを。選択は、現実をとるのか、それとも幻影をとるのかなのです。

想像のもっとも基本的な役割は、代替現実を創出することによって現にある恐怖や不安から眼をそらさせようとすることです。しかし、実際に起こることは、恐怖が単純にさらに深く埋められていくだけなのです。福音の根本的機能は、もちろん、福音以外に根本はないのですが、恐怖を追放するところにあります。私達がどんどん深く、まったく恐怖から自由な心の中へと進み、そしてそこでもっとも深い愛と遭遇することができるようにするために、恐怖というものを根こそぎ引き抜くことなのです。だから、世界と共有すべく私達に与えられている大いなる贈り物とは、私達の現実体験なのです。
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覚えておきなさい。腰をおろし、背筋をピンと伸ばして身動きせずに座りなさい。眼を軽く閉じ、体をリラックさせて、しかし心はとぎすませて座りなさい。声を出さずに、心の中で、一つの単語を唱え始めなさい。私達は「マラナタ」という祈りの言葉を薦めます。同じ長さの4音節としてそれを繰り返しなさい。自分の唱えるその言葉に耳を傾けなさい。マラナタは、そっと絶え間なしに唱え続けなさい。何も考えたり、想像したりしてはいけません。霊的なことであろうと俗的なことであろうとです。色々な考えやイメージが浮かんできますが、それらは過ぎるに任せなさい。最初から最後まで、ただ自分の注意を謙虚に飾り気なしに、自分の選んだ言葉を信仰のうちに唱えることへ戻しつづけなさい。
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瞑想の後で
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John the Elder, "Letter Five," THE SYRIAC FATHERS ON PRAYER AND THESPIRITUAL LIFE (Kalamazoo, MI: Cistercian Publications, 1987, pp.332-333.

あなたの言葉では語り尽くせぬ愛の豊かさに栄光あれ!主よ、あなたの扉は開かれている。しかし誰も入るものがいない。あなたの栄光は顕された。しかし誰も見ようとはしない。あなたの光が私達のひとみの中で輝いている。しかし私達は見ようとしない。あなたの右手はさしのべられている。しかしその手から受け取る者は誰もいない。ありとあらゆる種類の魅力あるもので私達の注意をひこうとしているが、私達は無視している。恐ろしいこと、とはいっても赦しも織り込まれているのだが、をもって恐怖心を私達に植え付ける。しかし私達はあなたのもとには逃げていかない。あー、憐れみ深い我らの神よ、私たちを無理やりにでもおそばに引き寄せようというお気持ちをお持ちください。私達の魂を檻から取り出してください。私達は自分で囚われてしまっているのですから。そして私達を真実の光の中へと引き出してください。私達は自分では出て行こうとはしないのです。あなたの力が私達を安全な囲いの中へ置いて下さいますように。主よ、私達の目の前から、ベールを取り除いてください。私達の魂の眼を曇らせ、あなたの真実の光を見えなくさせているベールを。絶え間なく、中断されることなく、その光の中に、何もまとわず、顔もおおわず立つことができますように。その美しさを心から求めつづけますように、その美しさの喜びの中にとこしえにいつづけることができますように。アーメン。
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