黒宮緑カリブで描く
これはWCCM本部のHPに掲載されている2001年3月のNewsletterの日本語訳です。原文は http://www.wccm.org/ のNewsletter最下部2001Marchでみることができます。









 

Newsletter

March 21st 2001

 

私はつい最近西インド諸島を訪問しました。2週間にわたって現地の瞑想者の皆さんと会合をもちました。この方々とそして現地の司教の熱心なご支援を受けて、私は大変に受容力がある、幅広い層の新しい人々に瞑想をご紹介するお手伝いをいたしました。小さな公民館や大変小さな村の教会ばかりでなく、いくつかの大きな教区教会や司教座聖堂でもお話をさせていただきました。アンティーガ島のドナルド・リース司教とお会いしました。この方は純粋に教区民のために生きておられ、必要があれば、勇気をもって政府内の政治的腐敗に反対をなさる方です。トバーゴ島の田舎にいるダニーとも会いました。この人は、既婚の信徒なのですが、神父なしで長年にわたって小さな教区社会を繁栄させてきた人です。トリニダド島のシスター・ルース・モントリチャードに会いました。シスターは最も貧しい人々の教育の機会を提供する機関であるセルヴォルの責任者をしているのですが、同時に、いくつかの瞑想者のグループに、あきらめないで、成長するよう霊的な励ましを与えています。キリスト教の豊かな多様性を少しずつ味わう旅でした。旅の中で感じた霊感と希望の中で、一体私たちみんなが最も深く共有しているものは何なのだろうと考えました。同じ教会に属しているというだけではない。同じ信仰をもっているというだけではない。そういうことだけではなくて、同じ一人の人との交わりを共有しているのです。その人は誰でしょう。私達はその人を誰だというのでしょうか。

 

ポート・オブ・スペインである晩お話をした後、私は鍋工場に出かけ、スチールバンド(ドラム缶をたたいて演奏するカリブの民族音楽)が近々開かれるカーニバルのコンテストに向けて練習しているのを聞きました。スチールバンド音楽は、かなり新しい芸術です――最古の諸宗教と比べればキリスト教がかなり新しい宗教であるように。スチールバンドは、戦争中に陸軍の捨てた古いドラム缶を使って始まりました。進取気鋭の精神に富むカリブの人々は、色々な大きさに切るとドラム缶は素晴らしい音を出すことに気づきました。今日では、カリプソばかりではなくクラシック音楽も奏でる音楽として隆盛しています。演奏者たちは――私が身体を揺らしながら聞いたバンドには80人いましたが――楽譜は読みません。彼らは耳で演奏するのです。そして指揮者をさがしたのですが無駄でした。どうやってみんな合わせてるんでしょう。演奏家の中に一人、特別な人がいるようでした。彼は時々演奏が早すぎるとか遅すぎるとかみんなに警告するためにドラムを特別なたたき方をしていました。

 

「その人は姿を隠しながら私たちのところに来られます、そして救いは私たちがその方に気づくことにあるのです。」その人とは誰でしょう。そしてどうして私達は今日その人について語ることができるのでしょうか。この問題は、私がロンドン・クリスチャン・メディテーション(瞑想)センターの仮の本拠地で「信仰の意味」について行なっているゼミで、3週間座っているグループが考えている問題です。先週、太陽の国から鉄灰色の空と足と口の病気の国へ帰るとすぐ、みんなに尋ねました。イエスへの信仰の意味は何なのだろう。イエスは今の世において、そして歴史を通して、世界中の一人ひとりの人にそれぞれ別な意味を持っている、それでいてこの人は、目には見えない形で人類という音楽を指揮しておられる。

 

疑いと信仰

 

毎年クリスマスになると、家族と一緒に「辞書遊び」というゲームをします。誰も知らないだろうと思う単語を一つ選び、それぞれが勝手にその単語の意味をでっち上げます。そして他の者に、それこそがその語の本当の意味であると信じ込ませようとするのです。オックスフォード・英語辞典のどのページにも全く初めてという単語がたくさんあって本当に驚きます。本当に私達は、自分が話せると思っている言葉についてなんと少ししか知らないことでしょう。自分では知っているつもりの単語でも、知らずにいる意味がいくつあることでしょう。私達の話す言葉についてそうだとすれば、信仰の言葉、特に私達の信仰の中心であるイエスについての言葉については、はるかにこういうことが言えるのではないでしょうか。そして――信仰者として私達はこの大きな疑念に勇敢に立ち向かうべきなのですが――私達は、イエスに、自分ででっち上げた意味を勝手に与え、自分自身をも欺いているということはないでしょうか。(人生の意味を蝕みつづけ、やがて絶望か冷笑主義へと駆り立てていく小さな疑念というものがあります。しかし大きな疑念は信仰を強め意味を確認してくれるのです。)

 

私達は、英語の語彙のほんの一部を使っているに過ぎません。話している時の80%は、40くらいの単語しか使っていないものです。職業や教養や趣味などによって私達は自分に固有のボキャビュラリーを身に付けていきます。一週間の間に何度私は「瞑想」という言葉を使うと思いますか。信仰についても同じことが言えます。私達は専門化された領域に住み、信仰の方言を話しています。先週末、私達は、こういう自分の小さな世界から外に飛び出してみました。エセックスの瞑想者たちに率いられて私たちが「聖霊のスペクトラム」と呼ぶ一日を過ごしたのです。ゴスペル・クワイアが手をたたき、熱唱していました、そしてレクション(聖句読誦)がなされ、静かに思索し聖句の分かち合いがなされていました。そして癒しもなされていました――按手がなされ、肉体のそして心の苦しみからの救いを祈り求めていました。他には類のないイベントだと思いました。とても大胆な試みです。そして最初私はうまくいかないかもしれないなと思っていました。しかし、どういうことか、すべてがとてもしっくりとおさまったのでした。多くの才能ある人々の活躍が明らかに認められました。しかし、にもかかわらずただ一つの精神がはっきりと感じ取られたのです。私たちは、イエス・キリストに対する同じ信仰を共有していたのです。福音主義者たち、瞑想的な人たち、カリスマ派の人たち、一人ひとりがそれぞれのドラムをたたいていたのです。

 

誰のイエスか。イエスは誰なのか。

 

イエスがこの問を投げかけているのです。イエスは尋ねました。「お前たちは私が何者だと言うのか?」と。これはキリスト者の生活にとってはキーとなる問の一つです。それはヨハネの福音書の中で最初に使われている言葉に似ています。「お前は何をさがしているのだ。」こういう問にはただ一つの答えというものはありません。それは、私たちの人生を絶え間なく形作り、方向付けをし、そして私たちに目的意識を与えるものです。イエスは各福音書の中で、いつもそういう問を投げかけています。断定的評言ではなく問いかけは心を開き知識の探求を息づかせ続けます。もし日々、こういう開かれた問いかけをもって生活したくないというのなら、霊的な道を追及してはいけません。イエスの「お前たちは私が何者だと言うのか」という問いかけはどのようにしてこれをするのでしょうか。それは公案が、人間精神を知識の断崖へと連れて行き、言葉や、思考、想像、そして理知の限界を白日の下にさらすのに似ています。それは人を、細心の注意をはらって耳を傾ける人を、個人の他者性という純粋な現実の中で生きる時、絶え間なしに直面するあの沈黙へと連れて行くのです。他の人々の現実は生活の中での最大のチャレンジです。一人の人間というのは翻訳することも、定義することもできないものです。一人ひとりの人が本質的に唯一無二の存在であり、繰り返し不可能なものであり、ただ一度きりの出来事なのです。もちろん私達は普段は、他者性とこのような直面をすることを逃れようとしています。出会う人々や、かかわりを持つ人々を、私たち自身のエゴが必要や恐怖にあわせて勝手に創りかえ、直面することから逃れようとします。これが人間関係の問題の原因なのです。なぜならば、他の人の現実というものは、こんなふうに押さえ込まれたり、書き換えられたりすることをかたくなに拒むものだからです。私達は、イエスに関しても同じことをしているのです。教会もそれをしています。一人ひとりのクリスチャンもそれをしています。

 

生活の中で出会う人々で、「お前たちは私が何者であると言うのか」というイエスの投げかける問いかけをしてくる人は多くありません。もしそんなことをする人がいれば、「お前は自分を何様だと思ってるんだ」と、無視してしまうでしょう。それは誇大妄想狂かご主人様かどちらかのする問いかけだからです。しかし、イエスの問には逆らいがたい権威、謙虚さという、何者にもまけない権威があります。イエスの謙虚さは、彼の自己知識からくるのです。もし、すでに自分が何者であるかを知っていなければ、イエスの問いかけは私たちにいかなる力も持ち合わせないことでしょう。「私は自分がどこから来たのか知っている、そして自分がどこに行くのか知っている。」とイエスははっきりとヨハネの福音書の中で語っています。

 

彼の問は私達の注意をひきつけます、そしてもし私たちがそれに耳を傾け続けるならば、それは救いをもたらす問いとなることでしょう。つまりそれは、オープンで自由をもたらすイエスとの関係へと導いてくれるからです。私達は、その関係の中に閉じ込められるのではありません。なぜならイエスは私たちを捕らえたり、支配しようとしているのではないからです。ただ愛そうとしているのです。愛するということは、相手を自分の最も深い自己知識の中に入れることです。しかし人間関係での不安とそして背信の経験の故に、私達はどうしてもイエスの意図の純粋さを疑ってしまうのです。だから本当に長い時間が必要な場合があります。実際に彼の問いかけに耳を傾け、仮にそこへ連れて行ってほしいと思ったとして(そう思った場合に限って)それが私たちをどこへつれて行くものなのかを探ってみようとするまでに。でも、仮に人間の意識の根源的な問である「私はだれなのか」という問いでないとすれば、それはどこへみちびくものなのでしょう。すべての人間関係がこの、自分はだれなのだという問を指し示しています。イエスのような無私無欲な人との関係は、直接そして直ちにそこへと導いていってくれるのです。

 

心で聴くこと

 

聴くことの最初の障害物は自分のエゴです。エゴは他人の他者性を恐れ、自分の生き残りを危ぶむあまり、他人を支配しようとしたり、所有しようとしたりします。今日多くの人がイエスの問いかけに耳を傾けることが難しくなっている理由の一つが教会です。人々はイエスを教会と混同しているのです。そして教会は、集合的なエゴであるが故に、この混同を奨励しているのです。教会は時としてイエスとの面会をコントロールしようとしているグル(ヒンズー教の導師)のグルーピー(ロックの追っかけフアン)的弟子のようにふるまいます。もちろん教会はこういう事ばかりではありませんが、これは対処することが難しい問題です。特に今日のように、現代の中で教会が自らを再発見しようとしている時においては。しかし、こういう込み入った問題があるにもかかわらず、イエスの問いかけは不変です。キリスト者の信仰の基調をなすビート(鼓動)なのです。イエスの問いかけが不変であるのと同様に、イエスのアイデンティティ(彼が何者であるかということ)も、私たちがイエスにどう応えるかということによってはまったく影響を受けることはありません。仮にイエスが不変でなかったとしたら、仮にイエスが、私達に認められなかったからといって立場を変えるようなことがあれば、仮にイエスが、私たちが背を向けたら、不実になり復讐心に燃えるようなことがあるとすれば、イエスの言葉に耳を傾ける価値はないことでしょう。

 

ではイエスは何者なのでしょうか。自分にとって、ということです。そしてもし私たちがこの問いかけを共有することができるならば、私たちにとって、イエスは何者なのでしょう?すべての人間関係と同じように、イエスとの関係も発展していきます。それはあやまちや修復を通して、口論や和解を通して、相互理解と発見を通して広がっていきます。この発展は、私たちがイエスの人間性を通してイエスとのかかわりを持つから起こることなのです。誰にしても、その人の人生の、経験の総体でなければ何者でありえましょう。イエスはその人生であり、その死であり、その復活なのです。だから私達は、イエスを知ることには3つの段階がある、イエスの自己知識を共有する3つのレベルがあるといえるのです。

 

第一段階

 

第一段階として、各福音書に描かれているイエスの生涯からみてみましょう。これらの聖書記事についての知識は必須の第一ステップです。さてこの場合、私達は、イエスの問いに、「あなたは教師です」と答えることができます。教師というのは知識を詰め込んでくれる人のことではなく、真実を示し、心に真実の種子をまいてくれる人のことです。それは新約聖書の中で一番頻繁に用いられているイエスの称号です。これほどの大きさをもつ教師は、あなたを取り込もうとしたりあなたの他者性、すなわちあなたの自我を奪ったりするものではありません。洗脳者ではないのです。同様にイエスは自分の知っていることを胸に秘し、一枚一枚札を配るように出してくるようなこともしません。「私は父から聞いたことはすべてあなた達に伝えた」とイエスは言っています。確かにイエスは私達の「主なる君」なのですが、イエスから学ばなければならないのは、その心のやさしさ、そして謙虚さです。彼は心理を実例で示します。私達の足を洗ってくださる時、それは、どっちが偉いかなどと兄弟姉妹が争うのではなく、イエスの行いに習うべきだということを教えるためなのです。

 

神について知ったことをすべて伝えるということは、教師の行いであり同時に友の行いでもあります。「もはや私はあなた方を僕とは呼ばない、友と呼ぶ」。この友情によって、クリスチャンは、神との関係の理解を全面的に変えられるのです。「クラウチング・タイガー、ヒドゥン・ドラゴン」という映画の中で、主人公は孤独な武術の師範なのですが、ある時弟子となりうるかもしれない者、自分の教えを授けるにふさわしい者を見つけ喜びます。しかしイエスはすべての人の先生なのです。イエスは自分の知識、経験をただ一人にだけ伝えるとか、あるいはただ「12人」だけに伝えるとかはしないのです。イエスはすべての人に伝えているのです。これは人類にとってこの上なく喜ばしいことです。これはまた、イエスは決して自分のエゴを満足させようとしているのではないことを示してもいます。彼が自分を指し示しているのは、自分を通り抜けたところにあるものを指し示すためという目的以外ありません。ヨハネの福音書は、イエスが指し示しているのは自分だけではなく、父なのだということを非常に強調しています。とすれば私達は尋ねなければなりません。「父とは誰なのか」それはダライ・ラマが、チャンスがあったらイエスさんに聞いてみたいなぁと言った問です。イエスは実はこの問には、「私を見ることは父を見ることである」としか答えていないのです。とすれば、ふたたび問わねばなりません。見るとはどういうことなのでしょう?

 

いずれにしても、イエスは教師です。多分、どの宗教の人もこの点に関しては意見が一致するでしょう。山上の垂訓の中に、神の御国について、寓話の形で、非暴力に関し、愛について、神聖にいたる道としての人のゆるしについて、祈りについて、四終について、霊的成長に必要なものについてのイエスの明快な教えを見ることができます。しかし、自己知識における私たち自身の成長を通して発展するイエスとの関係そのものに含まれる暗黙の教えもあるのです。

 

とすれば、私達は、教師としてのイエスに、彼の生涯においてかかわりを持つのです。もし耳をすまし続け、もっと深く沈黙に入り込めば、イエスの問いかけに答える次のレベルに到達できるかもしれません。

 

2段階

 

この段階ではイエスの死が本当に意義深いものになります。いや、それは決して、ソクラテスや、歴史上の他の真理への殉教者たちのように、イエスも真正の教師であったというだけのことではありません。イエスの死は、私たちをイエスとのより密接な融合へと引き入れます。そしてそのために、教師としてのイエスの役割はさらに深いものとなるのです。

 

つまり、イエスは、教師であるばかりでなく救い主でもあるということです。少なくとも、こういうふうに見ている人がいるということです。「救い主(Saviour)」という単語はオックスフォード英語辞典の主要語の一つです。それは「預金銀行(savings bank)」のすぐ後に出てきます。「救う(save)」という言葉にもたくさんの意味があります。サッカーの試合でゴールを守る(save a goal得点を阻止する)こともできます。医師は命を救うことができます。人は救われ、天国に召し入れられることもできます。罪から救われることもできます。この単語の語源は日本語では軟膏というsalve(傷口を治すために塗るもの)とつながっています。重要ではあるけれど、もう廃れてしまった意味に「癒し、治し、健康状態に復元する」と言うのがあります。これなどは現代のクリスチャンとしては取り戻したい意味かもしれません。初期のキリスト教徒はイエスのことをしばしば「神聖なる医者」と呼んでいました。

 

救い主とは、「守るもの」でありまた「危難から救い出す者」でもあります。「一つの場所を安全なものにしてくれる」人でもあります。もう一つ非常に魅力的ではあるけれども廃れてしまった意味があります。「危険な航海を安全に行なう」(例、岬を回る航海をsaveする)という意味です。そして、擦り傷や引っかき傷を減らすように慎重に自分の身を処するという意味で「自分を救う」という場合もあります。この言葉は、キリスト教の伝統の中心なものです。しかし、特に、脅迫するみたいに、あなたはイエスを「あなたの個人的な救い主」として受け入れますかと尋ねてくる攻撃的な信仰者たちが使っているのを聞くと気持ちが離れてしまう人の多い言葉でもあります。この言葉を取り戻すためには、ここであげたようなこの単語の意味で少し遊んでみるのも有効かもしれません。

 

しかし、どんな言葉を使うにしても、これは、私達が、イエスとの関係において、模倣から参加へと移行していく時に必須の第2番目のステップなのです。「一人の先生」として、そして後には「私の先生」としてのイエスとの関係を通して、私達は自己知識において成長をしていき、そしてこの関係の結果として私達の宿命が改善されていることに気づくのです。この改善とは何でしょうか。「キリスト・イエスにおける救い」のしるしとはどういうものなのでしょうか。明らかに、どんどん大きくなっていく傲慢と独善、あるいは自分たちは救われているが他の者たちは救われていないという確信ではありません

 

そのしるしは、希望という神秘的な新しい感覚であり、万事がいかにも正反対の極を指し示しているように思われるにもかかわらず、「万事はよくなる」という安心感です。絶対的親しき交わりの感覚。人類の普遍的な孤独感の癒し。トンネルの出口の光。そして平安と喜びと幸福が内部から現れてきます。その平安、喜び、幸福は様々な欲望の外的充足とは無関係なものです。その時、イエスは先生であった時よりももっと近くに来ています。しかし、そうなってもまだイエスは誰かその一人だけのウサギやテディベアではありません。にもかかわらず、親が子に対して、あるいは恋人同士が、互いについて自分たちだけが知っていることを語る時に、自分たちだけにわかる言葉を使うことがありますが、そういった種類の親密さが生まれてくるのです。

 

ジョン・メインが強調していたように、イエスとのこのレベルでの関係を理解する際には人間的な愛のひながたがとても大切です。どんな関係であっても、それはオープンなものであり、そして愛情生活は必ず改善されていきます。その時の人生における問題は、「その人は信頼でき、忠実な人だろうか」というものです。そうであってほしいと思います。そうでなければ私達は傷つくことになります。イエスとこの深さの関係にあるとき、それは、存在の根拠である父に起源を持ち、父をゴールとする人との関係ということになります。これは、私達は徐々に彼に対する猜疑心を克服し、彼こそ本当に信頼でき忠実な人だと信じることができるということを意味します。彼は、究極的な、そして実際信じがたい意味において私達のためにいてくださるお方なのです。ある意味あたりまえのことなのですが、私達は最初、ちょうど初めて恋に落ちた時のように、ロマンチックな気分になりべたべたとしたくなりがちです。しかし自己知識において成長し続ければ、私達はこういう状態を脱していきます。イエスの忠実さに力づけられ、他の人々との関係にイエスのような無私無欲をもって立ち向かうようになるのです。ロマンスが成就された現実となるのです。エロスがアガペーとなるのです。

 

イエスを救い主として知ることは大きな恵みです。多分私たちが思っているよりもはるかにまれなことです。だから仮にそれを見いだしたとしても、他の人もそれをもたなければ駄目なんだなどとどうして要求できるのでしょうか。どうして、絶対に強制されることのできないもの――すなわち互いに愛し合うこと――を他の人々に強制しようなどとできるのでしょうか。どうやったら「イエスをあなたの個人の救い主として受け入れない限り地獄に落ちますよ」などと言えるのでしょうか?このレベルでは、私達は、その死を通して――すなわちイエスの自己超越と犠牲的な愛――を通して私達に伝わってくる意味においてイエスとの出会いを持っているのです。

 

私たちが、イエスが誰であるのかということをこういうレベルで知ることがどういう意味であるかを認識すると不思議なことが起こります。イエスは個人的な親密さをもって私達に近寄ってくる、私たち自身の自己知識に近づいて来るのです。それでいて同時に、イエスは私達の手の届かぬところへと引きこもっても行くのです。

 

第三段階

 

ここで私達は彼の復活を体験し始めます。イエスをその宇宙的な広がりの中で「主」と見る第三のレベルへと入るのです。「主」を意味するギリシャ語「キィリオス」は意味があいまいな言葉です。それは、sir(様)のような、ただの社交上の敬称でもありえますし、また神を意味することもあります。これはよい意味での曖昧さといえましょう。イエスとのこのレベルでの関係は2番目のレベルよりももっとまれなものです。それはイエスを限界にまで引き伸ばすことになりますし、私達の自己知識を不安なほどに、しかし同時に酔いしれるほどの限界にまで拡大していきます。

 

これが経験される場が復活なのです。この経験のなかで、イエスが説明のつかない、他には真似のできない存在様式で死を克服したことを理解します。親密でいて同時にあらゆるところにいたもう。イエスの、文化を越えた、時間を超えた、そして宇宙的な意味さえも理解します。聖ヨハネの福音書の最初の言葉が輝き始めます。「始めに言葉があった。・・・・そして言葉は肉となって、、、」

 

ここは慎重にならないといけません。このレベルでイエスに気づくことは簡単なことではありません。復活後イエスが現れたことに関する福音書の記事は、彼の存在が通常のものであったことを強調しています。彼は単純にそこにいるのです。しかしイエスについて考え、イエスについて語り、イエスのために泣き、取り残され悲しがっている弟子達はイエスが自分たちの前に立っている時でも気づかないのです。気づいた時でも自分の目や正気が信じられません。目にみても信じることができないのです。トマスは「絶対に信じない」と言ったのです。

 

やっと信じた後でも、この昂揚した知覚状態を維持することは弟子たちには(そして私たちにも)とても難しいことなのです。霊的な感受性というものは、日々の物質的なまた心理的な諸問題によってすぐに弱められるものなのです。個人として、また教会として私達は後ずさりし、すべり、そして一度はあれほどはっきりとそしてみごとに見えたものを忘れてしまうのです。その時、御霊が助けに来てくださり、忘れてしまったものを何度も何度も思い出させてくださるのです。

 

しかし私達はもっと知りたいと思わなければなりません。私達はこの次元でイエスを知りたいという情熱を持たなければなりません。今こそ私達の霊的な鍛錬に深く打ち込む必要があるのです。私達は、瞑想をし続け、瞑想が私達に開いてくれる体験を生き抜くために、あらゆる種類の純粋な支援と励ましを最大限に活用する必要があるのです。お釈迦様が言ったように、おぼれるものが息をしたがるのと同じくらいに、悟りを求めなければならないのです。

 

しかし。イエスをよりよく知るようになると、イエスを失わなければならなくなります。イエスが私達に分け与えてくださる自己知識を突き詰めた時、私たちはイエスと同じ場所に入ってしまうからです。父の中に、「子を除いては誰も知らない」父の中に。そうなれば、「もはや生きているのは私ではなく、キリストが私の中で生きているのです」そしてついには、キリストの命さえも三位一体の渦の中に入るのです。「そんなところまで誰が行きたいと思うものですか、ま、とにかくありがとう」とおっしゃいますか?本当にたどり着くには長い時間がかかるのですね。

 

復活においてイエスは私達の前に御霊を通して姿をあらわしますが、「私にすがりつくのはよしなさい」というのです。その人間として存在の極限においてイエスは霊となるのです。魚が初期のキリスト教徒が好んだイエスの象徴でした。それは一つにはイエスの名前の文字を使っての遊びでした。でもおそらく魚は捕まえることが難しいし、つかもうとしても滑ってしまうからでもあるのでしょう。

 

しかし、賛美歌にあるように「イエスをもっと身近に知り、もっと深く愛する」ということをしようという試みこそがキリスト者の生き方なのです。それが弟子であることの意味なのです。こういう試みをしたからといって目に見える変化が現れるわけではありません。徐々に、私たちが豊かで、それまで未知であったものへと変えられていくにつれて、人間の旅路の中であれほど大きなものに思われた救いをもたらす問いかけ――私は何者か、あなたは私が何者であるというのか――さえもイエスと一つであることの沈黙の中に完全に消えていってしまうのです。

 

ある時、弟子達はイエスに気づきましたが「だれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった」しかし「彼らはそれが主であることを知っていた」のです。なぜ弟子たちは尋ねなかったのでしょうか。イエスが弟子たちをご自身との関係へと目覚めさせた最初のあの問を返さなかったのでしょうか?ひょっとしたら、イエスとの関係の中でそのもう一歩を踏み込んだとすれば、それが最後となるだろうことを感じ取ったのかもしれません。イエスの中へ消えていくだろうことを。

 

世界中のこんなにも幅広い様々な人々の信仰の中で、そして信仰を通して、主を垣間見てきたことは我が人生の恵みの一つです。これらの手紙が、あの豊かな多様性を持ちながら、なお、キリストの中で、キリストとひとつであるということを共有する助けとなればと思います。旅をしていると気づくことがあります。この惑星には色々な大洋があってそれぞれが別な潮流と海流を持っている、いや更に小さな単位の海ですらそうである。それと同じように、この世界には御霊の驚くべき運動がなんと多くあることか。しかし私はまた私達の小さなものではあるが広い範囲に広がった瞑想者のコミュニティの働きの価値も感じています。その本当の働きは隠されていますが、その演技によってではなく、その果実によって知られているのです。私達は、一人ひとりが、私達の日々の心への行脚によって、日々の沈黙の時間によって、あの働き――最後にはイエス自身の働きとまったく変わることのない働きを共有しているのです。私たちが共有するのは素晴らしい働きなのです。

 

大きな愛を込めて

 

ローレンス・フリーマン