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Weekly Readings -- November 18, 2001
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物理的には他の瞑想者達から離れていても、聖霊の中で結ばれています。瞑想が一日
の時間の流れの中に組み込まれるように、毎朝そして毎晩、同じ静かな場所、同じ時
間に30分間瞑想しなさい。時間をたっぷりと取りなさい、そして忠実にマントラを唱
えなさい、そして私たちすべてを聖霊において一つのものとしている沈黙のネット
ワークに入りなさい。
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 John Main OSB, "The Silence of Love," WORD MADE FLESH (London: Darton,
Longman, 1993), pp. 28-29.

聖アウグスティヌスのすばらしい文があらゆる世代のクリスチャンに鮮やかに語りか
けます。「あなたの中に入るまで、私の心が安らぐことはありません。」その安らぎ
を見出すこと、そして安らぎを見出すということは現実と直面することであると悟る
ことは、人間にとって普遍的で絶えることのない探求です。私たちは、生きていく上
で本当にしっかりとした土台を必要としています。人生の本当に多くのものが流れす
ぎていきます。生きるということは、砂時計の中を砂が流れ落ちていくようなもので
す。しかし、砂が落ちていくのを見つめながらも、皆わかっています。これがそのす
べてということはあり得ない。何かもっとはっきりとし、持続するものがあるに違い
ないと。

それだけではありません。この岩のような現実は、ただ見つけ眺めるだけのものでは
ないということもわかっています。その土台からしっかりと生きることが求められて
いるのです。これが新約聖書に語られている自由の体験なのです。キリストという
どっしりとした土台に根ざし、礎を置いて初めて、「キリストにあって(の中で)」
生き始めます。すると私たちの人生とその地平が広がり始めるのです。これがキリス
ト者の体験です。私たちの召しは、ただ単に孤立した人生を生きろというばかりでは
なく、神の無限の中から生きよ、いや、むしろ、神の無限の中に生きていけというも
のなのです。瞑想の体験というのは、このキリストに根ざした生活なのです。キリス
トの神秘の中に入り込み、その中で自分を失うのです。

から出て、中へ。失い、見出す。これが瞑想について語ることの難しさです。何語を
使おうと、それを使い始めたとたんにこの体験の一面を誤って伝えることになる。仮
に、「人生を失うこと」について語ったとしたら、私には、私たちの人生がどれほど
豊かに、どれほど深遠なるものとして与えられているかということは説明できませ
ん。失うと考えると、人生は絶対的な贈り物なのだという私たちの深いところにある
意識、つまり、人生は砂時計の中をさらさらと流れ落ちていくものではなくて、永遠
の中へと広がっていくものなのだという意識を見失うことになります。

言葉というのは、この神秘の深さを説明するにはあまりにも弱いものなのです。だか
ら、瞑想の絶対的な沈黙が究極的重要性を帯びるのです。私たちは神について考えよ
うとはしません、神に語りかけようとはしません、いや、神を想像しようとはしない
のです。神の永遠の沈黙に開かれたあの畏敬の念を起こさずにはいられない沈黙の中
にとどまるのです。瞑想の中で、訓練を通し、日々の体験に教えられ、これこそが、

たちすべてにとっての本来の環境なのだと発見するのです。私たちはこのために創造
されているのです。そして私たちの存在はこの永遠の沈黙の中へと栄え、広がってい
くのです。

しかし、「沈黙」という単語自体が、すでにこの体験を正しくは伝えることができま
せんし、おそらく多くの人々を躓かせることになるでしょう。この言葉には音や言葉
を奪われているという否定的な響きがあるからです。沈黙の瞑想は退行的なものでは
ないかと人々は恐れてしまいます。しかし経験すればわかります。また伝統もそのよ
うに教えています。沈黙の祈りは、前言語的状態ではなく、後言語的状態、つまり、
言葉がすでに言葉の領域、そして意識の領域の中で、そしてそれを超えて私たちに方
向をさし示すという役割を終えた状態なのです。永遠の沈黙には何も欠けるものはあ
りませんし、また私達から何かを奪うものでもありません。それは、まったく資格な
ど必要のない無条件の愛の沈黙なのです。私達は、ここへおいでと招いていてくださ
り、私達がそこにいることをあいしていてくださる、私達をそこにいさせようと造っ
てくださった父と共にそこに安らぐのです。
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>>>>>>>30分間瞑想<<<<<<<

腰をおろしなさい。身動きせずに背筋をのばしなさい。軽く眼を閉じ、リラックスし
て、しかし気を張り詰めて座りなさい。静かに、胸の中で、ただ一つの言葉を言い始
めなさい。私たちは祈りの言葉「マラナタ」を薦めます。同じ長さの4音節として唱
えなさい。自分で言いながら、その音を聞きなさい。やさしく、しかしとだえること
なく言い続けなさい。何も考えたり想像したりしてはいけません――たとえ霊的なこ
とであろうと、あるいはそうでなくても。いろいろな考えやイメージが浮かんできま
す。しかしそれらは流してしまいなさい。瞑想の最初から最後まで、ただひたすらあ
なたの注意を、謙虚にそして単純に、自分の信仰の言葉を言うことに向けなさい

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瞑想の後で
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Genoaの聖カトリーヌ, noted in ENDURING GRACE: Living Portraits of Seven
Women Mystics, by Carol Lee Flinders (New York: Harper San Francisco,
1993), p. 130.

「私は視覚によらずに物を見、聴覚によらずに音を聞く。感覚によらずにものを感じ
とり、味覚によらずに味わう。私は形も量目も知らない。というのも、視覚に頼らな
くてもとても神聖なる業が見える。完全、純粋などといった私が最初に使った言葉
は、真実を前にした今やただの偽りに過ぎなかったとしか思われないほど神聖なもの
だからだ。また私はもう「わが神、わがすべて」と言う事もできない。あらゆるもの
が私のものだから。神のものであるものすべてがまったく私のものであると思われる
から。私は神の中で音を失い、自分を失っている。
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