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第1回 このテープは、皆さんに、瞑想の静けさを手にいれていただくため用意いたしました。皆さんの心を平安へと、すなわち集中へと導いていくべく、お話させていただきます。瞑想においては一つの方向、つまり私達の中心に向かう必要があります。瞑想を始める時は、いつも、新しい気持ちで、信仰と愛をもって、心を開いていることが必要です。瞑想においては、毎回、私たちは、みんな、初心者となるのです。 瞑想に入るためには、静かな場所が必要です。背筋をぴんと伸ばして、静かに規則的に呼吸し、そして穏やかに、自分の中心に向かってマントラを唱えなさい。 忠実に、ひたすらマントラを唱えつづけることが必要です。 このテープの目的は、瞑想の間皆さんが何かを考えるようにすることではなく、逆に一切の考えをなくし、ひたすら忠実にマントラを唱えられるようにすることです。 このテープのお話に完全に集中することができる人は、瞑想の達人となれる人です。瞑想も、エッセンスは集中だからです。ただ、瞑想においては考えや、イメージに集中するのではありません。マントラとマントラのもたらす静けさに集中するのです。 瞑想についてお話していると、ノン・クリスチャンや、無宗教の人の方が、瞑想のことをよく理解してくれることに気付きます。普通の教会に通っている信徒や、司祭や修道士、シスターには、マントラが、どこか怪しげな新式の祈りのテクニックか、リラックスするためのセラピーの一種のように思うようで、とてもキリスト教の祈りとは思えないようです。 これは本当に悲しい状況といわねばなりません。こんなにも大勢のクリスチャンが、キリスト教本来の祈りの伝統を見失ってしまっているのです。私達はもっと、祈りの道を極めた偉大な祈りの達人達の智恵と経験に裏打ちされた言葉に耳を傾けるべきなのです。すべての祈りの達人たちが口をそろえて言っています。祈りは、私たちがすることではないのです。私達が神に語りかけるのではありません。私達の中におられる神の言葉に耳を傾けることなのです。私たちが神をさがすのではないのです。神が私たちを見つけてくださったのです。 ウォルター・ヒルトンが14世紀にとても簡潔に表現してくれました。「あなたは何もしない。ただあなたの中で働いてくださる神に魂を委ねるだけなのだ。」聖テレサも同じようなことを言っています。祈りの中で私たちにできることは、自分を捨てることです。後は、導いてくださる聖霊様にお委ねするのです。 私たちが、霊的経験を言い表す言葉はどんどんと変わって行きます。しかし聖霊の現実は不変なのです。だから、祈りの達人の言葉を読むだけでは不十分です。確かに、私たちに経験できることは、限られたものでしかないかもしれませんが、それでも自分の体験として、様々な証言のすべてを貫いて輝く同じ現実が見られるようにならなければなりません。 たとえば、ヒルトンと聖テレサが言っているのは、私達はどう祈るべきか知りませんが、霊自身が私達の中で祈ってくださるのです、と書いたあの聖パウロの体験と同じ祈りの体験なのです。 今日的言い方をするならば、こういう祈りができるようになるためには、まず動きを止めなければいけません、集中するのです。そうして初めて心の中にいてくださるイエスの御霊の愛に入り込むことができるのです。 さて、こういってもなお、多くのクリスチャンが言うことでしょう。なるほど、でも、それは、聖人の、祈りの専門家の話じゃないか、と。 まるで静止、そして沈黙は人間精神に普遍的に存在するものではないみたいな言い方をします。これは誤った謙虚さですが、なかなかに取り去りがたいものです。なぜ、こういう誤解が起こるのかといえば、それは、聖パウロの書簡がどういう人に向けて書かれたのかが単純にわかっていないことが原因でおこる誤解です。 聖パウロは、ローマや、コリントやエフェソの一体どういう人にあててあの手紙を書いたのでしょうか。カルメル会やカルトゥジオ(フランス語ではシャルトルーズ)会の修道士のような専門家に宛てて書いたのではありません。夫であり妻であり、肉屋でありパン屋であった普通の信徒達であったのです。 さらに言えば、後世のマスター(達人)達の祈りのはっきりとした特徴も知らないから起こる誤解なのです。 たとえば、アヴィラの聖テレサ(スペインムロス出身)は、祈りに関して真剣であれば、半年、あるいは一年という短期間の間に「静寂の祈り」へと導かれていくものだという考えでした。マルミアン僧院長は、修道院での最初の数年間の修練期間は、その最終段階としていわゆる観想(瞑想)の祈りへと導くように考案されるべきものと考えていました。 十字架の聖ヨハネは、論理的な思考が、かえって気を散らし、祈りの邪魔になってきたらやっと沈黙の祈りができるようになるのだと言いました。 謙虚さを賞賛することにはある種の尊大さがあります。イエスの贖いの愛への招きを超然と上から見下しているところがあります。自分こそが、イエスが癒しに来て下さった病める者、罪人なのだ、とはなかなか認められないものなのです。そして、無防備な沈黙の中で「他者」と面と向かい合うよりも、自己防衛的な孤立を選んでしまうのです。 瞑想の中では意識という探照灯で自分を照らすことをやめるのです。自分がいかに価値のない人間であるかなどと言う自己分析はしないということなのです。もし、過去の行いの記憶が自分と神との間に立ち現れ続けるならば、神への深い愛があるからこそ、強い決意をもってその記憶を踏み越えなければならないと、「Cloud of Unknowing」の著者は書いています。 祈りの中で、キリストの中の神をより深く知るようになります。私達の道は沈黙の道です。沈黙に至る道はマントラの道なのです。 |