第11講話クリスチャン・コミュニティ・パート1

仮に今日我々クリスチャンがイエスの福音を十分な確信と熱意をもって述べ伝えることができないとするならば、それは何よりも、私達の本質的な意味が他の人々のために存在しているということを忘れていることが原因だ。教会は自らを永続させるために存在するのではないし、あるいは自分が傷つかぬよう防御するために、自らの安全を強化するためにあるのでもない。教会は他の人々を、イエスにおける神の救済の愛を知らしめるために存在するのである。そしてあの他者のために存在している限り、教会は不死身である。「あなたがたは世の光である」とイエスは高らかに弟子達に語る。「ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば家の中のもの全てを照らすのである。そのようにあなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5章14-16)

 

もし世間が、イエスについて私達が語ること、人間の霊魂について私達が語ることを信じないとするならば、それは、彼らには、私達が本当にそれを信じている、本当にそうだと知っていると信じられないからではないだろうか。世間が持つ、教会のイメージを変える事に意識を向けるだけでは十分ではない。これがどんな影響をもつだろう、とか、あれはどんな印象を与えるだろう、とかいうのでは不十分である。教会のイメージを変える事から始めるのではなく、私達は神の似姿だと再発見することから始めなければならない。

 

それをする方法は一つしかない。そしてそれが、教会に委ねられた光を、家の中にいる全ての人の上に輝かす本質的なやり方なのである。そしてこれが祈りのやり方である。あらゆる場合同様、この場合においてもそのやり方は最後まで快適なものでなければならない。私達クリスチャンの社会は自分達のためにあるのではなく、他の人々のため、そして究極的には、あの他者のためにあるのである。そして祈りの中で、自分があの他者のために存在していることを発見しなければならない。なぜならば祈りの中においてこそ、自分があのお方に造られつつあり、そして養われていることを経験するからだ。

 

とするならば、祈りの中においては、神が在っていただく、在るがままに神が在らせられることを恵みとし、神を操ろうとか、非難とか媚びようとかはしない。私達は私達の巧みな言葉や決まりきった式文などで神をおいはらったりはしない。 私達は神を礼拝するのである。つまり私達は神の価値、真価を認知し、そしてそうする中で、神の似姿に造られた我々も、神の子として神の価値、真価を自分のものとさせていただくのである。

 

全ての人がその生涯のどこかで、愛する人といる時や、あるいは、多分、深い悲しみや苦しみの時には、沈黙に特殊な力があるということを経験してる。時として人生の中の非常に重要な場面で、沈黙が自然に訪れる時がある。というのも、私達は感じるのだ。今自分がある真理を直接体験しようとしてる、しかし言葉を使うと、心がそれてしまって、その真理の中に入り込めないと。そして沈黙がもつ力というのは、この真理が出現しようとすること、表面に昇り、目に見えるようになろうとするのを妨げないということだ。それは時がくればおのずと、自然に起こることだ。私達はそれをどうしても引き起こさなければならないという責任はないが、それが自分には固有の意味を持っているということが分かっている。それは自分達よりも大きいと分かっているし、自分の中に思いもかけぬ謙虚さがあり、その謙虚さが本当に気を張り詰めた沈黙へと導きいれてくれると気づくかもしれない。真理は在るがままにあっていただくのだ。

 

しかし、私達全ての中に他の人々を操ろうという気持ちにさせるものがある。ある真理の瞬間にぼんやりとであるが直観的に理解したその力を弱めよう、その他者性を中和し、自分自身の姿をその上にかぶせてしまうことで、それがもつ人間を変えてしまう力から自分を守ろうとするところがある。偶像崇拝の罪は自分の神を自分自身の似姿に造ることである。畏怖の念を起こさずにはおかぬほど異様なる神と遭遇するくらいならばと、私たち自身の精神と情緒的な姿に神のおもちゃを作り上げるのである。こんなことをしても、神に害を与えることなどできない。それは非現実は神にはいかなる力ももたないからである。しかしこれは、金色の子牛の偽りの輝きと引き換えに、我々人類の能力と神の栄光を打ち捨て、自分を卑しめることだ。真理の方が、はるかに胸躍るし、はるかにすばらしいものだ。神というのは私達の意識の鏡などではない。神の子、私達の兄弟であるイエスと一つとなることによって、私達が神の鏡像、似姿となるのだ。私達のこの真理の経験にいたる道は、瞑想の沈黙の中にある。