第12回 クリスチャン・コミュニティ・パート2

私達は、神を自分の大きさに切りそろえ、神の上に自分の姿をかぶせてしまうことがありますが、それと同じことを他の人に対してもすることがあります。いや実は、神に対してするのですから、他の人間に対しては必ずしてしまいます。そしてもし他の人にするのであれば、必ず神にたいしてもすることになります。これは聖ヨハネの「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎むものがいれば、それは嘘つきだ。目で見たことのある兄弟を愛さないとすれば、まだ見たことのない神を愛するなどあり得ないことだ。神を愛する人は兄弟をも愛さなければならない。この掟はキリストその人から私達に与えられているのだ」(ヨハネの手紙T4:2021 英文より私訳)という言葉と表裏をなすものです。聖ヨハネの言葉をはっきりと理解しておきましょう。私達は神かあるいは隣人かのどちらかを択一的に愛することはできないのです。私達は両方を愛するか、どちらも愛さないかなのです。そして愛とは何か、相手(他者)の他者性を喜ぶことです。この意識の深さはそのまま相手(他者)との交わりの深さなのです。この交わりの中で、本当の自分を発見する時、同時に相手(他者)の本当の姿をも発見するのです。だからともに生きる人々のことを、私達が自分に似せて作った鋳型に投げ込む対象として見てはならないのです。その中に自分の本当の姿を見つけ出すのです。というのも私達の本当の姿というのは、他者に全的に立ち向かう時初めて姿を見せる、初めて現実のものとなるものだからです。

 

瞑想に於いて私達は、自分の全存在を「他者」に対して向かわせる能力を発達させます。ちょうど在るがままの神に向かうように、在るがままの隣人に向かう術を身に付けるのです。隣人を操ろうとするのではなく、隣人に崇敬の念をもって接するのです。隣人の重要さを、隣人が存在することの不思議を敬うのです。言葉を変えれば、隣人を愛するということです。このために、祈りはコミュニティにとっては偉大な学校となります。ともに真剣に祈る中で、そして祈りを通して堅忍することの中で、私達は、深遠な、愛に満ちた、相互に対する尊敬心をもってともに暮らす聖別された者たちの友愛の社会としてのキリスト者のコミュニティの真実の栄光を実現するのです。キリスト者のコミュニティとは本質において、他の人々から崇敬の念をもって接しられ、私達も他の人々に崇敬の念をもって接するという体験なのです。この互いに対する崇敬の気持ちがコミュニティのメンバーが御霊の波長の上で相互に敏感に調和しあっていることを示すのです。私達一人一人をあの愛の充満の中へと招いてくださったのと同じ聖霊です。私は、他の人々の中に、私の心の中に住むのと同じ聖霊、私の真実の自己を構成するのと同じ聖霊があると気づきます。この認識は、私達の心を作り変え、意識を広げずにはおかないのですが、この認識の中で、その相手の人は、私自身の意識の投影としてではなく、その人の実在のままに、その人の真実の自己の姿でたち現れてくるのです。その人は、もう私の想像力のつくり出したイメージではなく、その人に固有の実在としてふるまいはじめるのです。仮に考えや主義が衝突することがあっても、私達は互いが、限りない愛、かけがえのない存在、本質的に独自な実在であると認め合うことによって一致の中に、ダイナミックな均衡の中におかれているのです。

 

だから聖霊のあらわれである、共に支え、共に苦しむキリストの体の成長はただ一つの目的に向かいます。互いの本来的存在を実現することです。本当のコミュニティは互いに相手を真実の存在の光の中に引き寄せあう中で生まれます。この過程の中で私達は、命の喜びの、「実在」の喜びのますます深まる体験を共有します。だからコミュニティの本質は他者の認識とそして他者に対する深い崇敬の念なのです。私達の瞑想はこの本質を体現するものなのです。なぜならば瞑想とは、崇敬の念に満ちた沈黙の中で全的に、私達の心の中にいます聖霊という「他者」に向かうことだからです。他者性が完全に明らかにされ、あらゆるものとの霊的交わりが成し遂げられるのは、崇敬の念に満ちた沈黙の中でなのです。他者に対し全注意を集中するので、私達は自分は何も言わず、他者が話すのを待つのです。マントラは私たちの内面を統治する沈黙をより深く意識させてくれ、そして待っている間、私達を支えてくれるのです。