第3回 マントラを唱える

瞑想の仕方を覚えるということはマントラの唱え方を覚えることです。そしてそれは実に単純なことですので、マントラの唱え方を明確に理解しなければなりません。私たちはマントラに対する誠実さにおいて成長しなければなりません。その成長に正比例してマントラはますます深く私たちに根ざしていくのです。

 

ご存知のように、私が皆さんに唱えるよう勧めているのはマラナタです。昔のアラミック語の祈りの言葉です。「主よ来たれ、来たれ主イエス」という意味です。皆さん、この言葉を胸の中で、四つの音節を同じ強さではっきりと、しかし、音を出さずに言ってください。マ・ラ・ナ・タと。ほとんどの人はマントラを唱え始めた頃は、まるで、頭の中のどこかで、声に出さずに、頭で言っているように思えるものです。

 

しかし、進歩するにつれてマントラはもっとなじむようになります。よそ者のような存在ではなくなります。意識への侵入者でなくなります。瞑想の間中、中断することなくマントラを唱えつづけるためにそれほど努力がいらなくなることがわかります。

 

そして、やがて、もうそれは、頭の中で言っているというよりも、心の中で響かせているように思えるようになります。これをマントラが心に根ざした段階と呼びます。瞑想においては喩え話は、実はあまりうまくいかないのですが、時には役に立つかもしれないし、また安心できるかもしれません。瞑想の中で各自が体験することは、忠実な人なら皆同じものです。

 

マントラを心の中で響かせるこの段階は、そっと振り子を押してやることに似ているといってよいでしょう。静かな、一定のリズムで振り続けるのに、ほんのかすかな刺激しか必要としない振り子をおすことに。

 

瞑想が本当に始まるのはこの段階です。

 

こうなって初めて自分自身から離れた集中ができるのです。こうなって初めて、マントラを唱えたり、響かせたりするのではなく、マントラに耳を傾けることができるようになるのです。そして私たちは、ますます深まる集中力の繭にくるまれていきます。

 

瞑想のこの段階をお話になった時、私の先生はよく言ったものでした。この時からは、まるで、山の斜面を攀じ登っている時に、自分の下にある谷の中でマントラが響いているように聞こえると。瞑想というのは、基本的に集中の業です。というのも、山の斜面を苦労して登れば登るほど、下の谷で響くマントラはどんどん弱くなっていくからです。だから先に行けばいくほど、さらに集中して、真剣に耳をかたむけなければならなくなります。

 

そしてその後に来るのが、あの不可知の雲の中に入る日なのです。そこに至ると、沈黙があります。絶対の沈黙。そしてもうマントラが聞こえなくなります。

 

しかし忘れてはいけません。いかなる意味においても瞑想のペースを変えることはできません。マントラが私達の意識に根ざす時間を速めることもできません。単純にマントラを忠実に唱えつづける以外はないのです。

 

また、自意識過剰になって「どこまで進んだのだろう」とか「私はマントラを唱えているのだろうか、それとも響かせているのだろうか、それとも耳を傾けているのだろうか」などと考えてはいけません。仮に、ペースを変えようとか、自分の進歩にたえず自意識の目を向けているとすれば、こんな言葉があるかどうか知りませんが、「反瞑想」をしていることになるのです。自分自身に集中している、自分自身を先に立てている、自分自身のことを考えていることになるからです。

 

瞑想では、完全に単純にならなければなりません。その完全な単純さへは、マントラを唱え始め、そして唱え続けることで導かれていくのです。