第5講話 自分を捨てること
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瞑想とは、 聖マルコの福音書にあるイエスの最も根本的な招きである、「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」を実践することである。父のもとに帰るキリストと一緒に旅をするために自分を捨てる――マントラを唱えることは、「自我」という狭い枠組みを越えさせてくれるものなのです。 「主の霊のおられるところに自由があります」と聖バウロが言っているが、マントラは、私達の意識を自分から離してくれ、この自由の中へと導きいれてくれる。 いかに自分を高めるか、自分を守るか、売り込むかがとても重要視されている今日の消費社会では、「私がほしいもの」がすべての中心であり、「他者」(「聖なるもの」の意味も含ませている)は、自分の快楽や利益の観点から眺める対象物におとしこめられる。 しかし他者が他者たりうるのは、我々がその他者に、自分との関係性の中でではなく、他者自身のために、他者に対して敬意をもって接近する場合に限られる。私達は、それが自分にどんな影響を与えるかなど一切考えることなく、100%その相手に注意を向けていかなければならない。もし、他者を対象としてみてしまうと、それ自体の実在性、独自性、本質的価値というものが我々には失われてしまい、私たち自身の投影となってしまう。 昔も今も自分を捨てるということと自分を拒絶するということを混同する人がたくさんいるが、瞑想は決して自分から逃げ出すことではない。我々の存在の責任、生活や人間関係における責任を逃れようとする試みではない。 瞑想は、自己の肯定である。とはいっても、もちろん、何か一つの責任を負っている自分を正当化するだとか、あれやこれをほしがる自分を肯定するという意味ではない。そういうものをすべてをこそぎ落とした後に残された極限的自己のことである。この自己は、私達の存在の源であり、私達を自己たらしめてくださっている他者と完全な調和の中にいる。私達が沈黙の瞑想の中で肯定するのは、この本当の自分なのである。 Niebuhrは、自己実現を意識的に目指しても完全な自己実現はできないと言ったように、本当の自分というものは力まかせにひっつかんで、贅肉をこそぎ落とそうとしたり、思い通りに動かしたりなどできないものだ。 じっと静止し、沈黙していると、私達の霊が成長するにつれて、私達の本当の自分が、次第次第に存在の隅々にまでその光を浸透させていく。私達は別に何かをしようとするのではない。ただあるがままの自分をいさせるのだ。こうして自分を捨てて初めて、つまり、意識を自分ではなくて、他者に、「あなた」に向けて初めて、私達は他者と向き合い、他者との関係を結ぶことができるのだ。 自分へのこだわりは自分を制約し自由を奪うが、自分を捨てると、自分は解き放たれ、他者を愛するという自分の本当の目的を達成することができる。 瞑想は、私達の心の中に住んでいるイエスの霊に対して私達の存在のすべてを開いていく過程である。 考えや、言葉、イメージという私達の意識の外的なあらわれから一歩離れ、意識そのものの中に入り込むと、沈黙が訪れる。それは沈黙の中に入り、全的に他者と向き合ったからだ。 この完全に意識的な、完全に自由な沈黙の中では、自然に、私達は、その沈黙の中から進み出てくる言葉、私達を存在させてくださった言葉、創造主が語られる言葉に対して自分を開いていく。これが私たちの中に生きている言葉なのだ。 それは私達の知識の及ばないものではある。しかし、私達の霊の高さ、長さ、深さ、幅の中でそれを完全に知る必要がある。そしてその知識へは、沈黙が導いてくれる。それはあまりにも単純なものであるので、いかなる思考もイメージもそれをとらえたり表したりすることはできないのだ。自分を捨てることで、沈黙に入り、他者に集中する、その中で明らかになるものだ。 そこで明らかになる真理は、インドの詩人の言葉によれば、「私は主を心の目で見、そして訊ねた。「主よ、あなたはどなたですか。」すると、 「おまえ自身だ」と主は答えられた。 |