第七講話

神の御国を求めなさい


月まできた猫
私はお前の中にいるのだよ。













え?

どうしてあなたは満たされていないのですか、どうして単純に幸せではないのですか、などと聞かれたら、ほとんどの人は、調和だの意識だの霊魂などという言葉を使って答えたりはしないでしょう。仕事だとか、人間関係だとか、健康だとかいった、日常生活の中の具体的な問題をあげ、自分の不幸せや心配の原因はこれだ、とか、こういう事が全部原因になっていると言うのではないでしょうか。実の所、ほとんどの人は自分の生活のこういう色々なことが共通点あるいは接点を持っていると考えることもありません。今日、多くの人々にとって、日々の生活の中の活動は、平行線のようにとらえられており、それぞれが相互に関係し合っていることを恨めしく思っている人が多いのです。その結果、現代生活は中心、集合点、全体を統合する根源をうしなっていることがしばしばあるのです。そうなると、男も女も自分の創造の原点という感覚を失い、その結果、本当の自分とのつながりを失ってしまうのです。

祈りを、単に、神に自分がほしいもの、必要としているものを告げ、自分が犯した不作為の罪を告白するものだと理解していると、私たちはますます現実から疎外されていくことになります。イエスが伝えに来られたのは、こういう解放のメッセージだったからです。「だから、言っておく、自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分と体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」こうイエスは言っておられるのです(マタイ625)。


でもイエスが言っておられるのは、私たちの生活の外的側面に対する無責任な、あるいは狂信的な無関心ではありません。イエスは、私たちに、私たちを創造しただけではなく、一刻、一刻私たちの存在を支えてくださっている父なる神を信頼する心(魂)、それも絶対的に信頼する心をもつように強くすすめておられるのです。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」と教えられました(マタイ634)。


つまり、今この瞬間に自己実現を果たしなさいというのです。というのも、あなたの幸せと充足は、今ここにあるからです。


他者を信頼するということは、自分を捨て、引力の中心をその相手に置くということです。これが自由であり、愛なのです。イエスは、生活の物質的関心事についてこうおっしゃいました。「それはみな、異邦人が、せつに求めるものであって、あなたがたが追い求めるべきものではない。天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。」(マタイ632)弟子達に、父の父性を信じなさいとイエスが言うその信頼は、ほしいと思いさえすれば何でも手に入るというような未成熟な子供じみた思い込みではありません。神を信頼するということは、自分自身を完全に他者に向けたということであり、それができれば、自分とそして自分が欲する気持ちの両方を超越したことになるのです。この超越の経験それ自体の中で、私たちは、私たちが求めることができる以上のもの、ずうずうしくも手に入れたいなどとは思いすらしなかったものを受け取るのです。「何よりも神の御国を求めなさい。そうすれば他のものもすべてあたえられる」(マタイ6:33)。


私たちの外的活動を正しく秩序づけようと思えば、まずこういう活動や関心すべての中心との意識的接触を再度確立する必要があります。この中心が私たちの瞑想の目的なのです。それは私たちの存在の中心です。聖テレサの言葉によれば、「神様は霊魂の中心です。」


この中心への通路が開かれれば、神の御国は私たちの心の中に確立されます。その御国はあらゆる被造物に充満する神御自身の臨在する力であり蔓延する生命なのです。だからジョン・キャシアンは言うのです、「永遠の著者(永遠をを書き著した人という意味)であるお方は、人間達が不確かなことや、とるにたらないこと、あるいは一時的でしかないことをご自分に求めさせてはくださらない」と。しかしそれは神が私たちに、生命のよきことを享受させたくない思っていらっしゃるからではなく、人間は、神ご自身、すべてのよきことの源であり、善そのものであられるお方御自身の賜るものを受け取ってはじめてそれらを楽しむことができるからなのです。神の寛大さの証拠は聖パウロが「私たちの希望の根拠」と呼んでいるものでもあります。それは、「私たちに与えられた聖霊によって、私たちの心に注がれている神の愛」なのです。(ローマ55


これは選ばれた小数のものだけのためにあるのではありません。それはあなたへの、そして私への、そしてすべての男達、女達への贈り物なのです。それを受けとるためには、それが私たちの体に入り込む場所である私たちの存在の中心に立ち返らなければなりません。私たちの存在の中心、イエスの聖霊を通して注がれる神の愛の源へと。