第8回

私たちの個人としての調和を実現するために:パート1

現代を最も明確に特徴づけるものの一つに、ほとんど例外なくすべての人が、何とかして、基本的な次元で自分に対する自信を取り戻さなければならない、自分の人生の土台、根源に立ち戻らなければならないと感じていることがあります。ほとんど誰しもが、非実存に滑落していくのではないか、自分を見失うのではないか、本当の自分にある距離をおいて生きてるのではないかという恐れをいだいています。ジェームズ・ジョイスが自分の作中人物の一人についてこんなことを書いています。「彼は自分の肉体からある距離をおいて生きていた。」これは、今私たちが疎外として知るようになったものをみごとに素朴な、しかし正確な言葉で表現しています。

私たちが、自分自身からの、他者からの、そして自然からの疎外感をもつ理由は確かにたくさんあることでしょう、しかし特に2つの原因が大きいように思われます。最初のは、私たちが個人としての責任を逃げていることです。誰か他の人や他のものに自分に代わって個人的な意思決定を任せてしまっているから自分を見失っているのです。慣習的なしきたりに反する行動をとる人について、「あの人は常軌を逸してしまったな」という言葉を私たちは何度口にするでしょうか。しかしその前提にあるのは、社会がすべての人生がたどらなければならない道を定めてくれているのだという思い込みです。

そして2つ目の理由は、自分のことをどのように考えるべきかについて受けているしつけであり教育です。私たちは、学校、仕事、家庭、娯楽、教会などと言うように自分の生活をあまりにも厳格に部分に分けるよう訓練されています。そのため私たちは、自分自身の全人性の感覚を失ってしまうのです。私たちが行ういかなる活動、責任においても、全人格が関与しているのです。それは神の個としての臨在があらゆる場所において完全なものであり、部分的な、あるいは限定的な臨在とはなしえないのと同じことなのです。

現代人は非常に深い混乱状態の中にいます。自分の人生の複雑さそして細分化のために自分の人間性が破壊されているように思われるからです。そして現代人が自分に投げかける問い、それは宗教的な人ばかりではなくすべての人が問うことですが、それは、「どうすれば自分を取り戻せるのだろう。どうすれば自分に対する自信、自分は本当に自分の生得の権利によって実存しているのだということを知る事から生まれる自信を回復できるのだろう」という問いです。私達はこの問いを発し、答えなければなりません。なぜならば、自分の実存に対するこの根本的自信なしには他者に出会うために自分から出ていく勇気をもてないからです。そしてその他者と出会うことなしには、私達が完全に自分となることはないのです。

また、誰にも備わっているある種の本能が警告します。この問いに対する答えは知的自己分析の手法の中では見出せないと。自分の本質的な調和と完全さ(wholeness=完全体、欠けるものがない状態)を発見するためには、自分を見出すとはこういう意味なのですが、そういうものを発見するためには、私達の存在の一部分にだけ集中するなどということはできません。現代人が今手に入れつつある再発見、それは新しい発見でもあるのですが、その再発見とは、実在は色々な部分に分けてではなく、一つの全体としてしか知ることができないということであり、そしてこの全的理解は沈黙の中においてのみ実現されうるということなのです。

この真理が今、今日の人間生活のそして思考の多くの領域で発見されつつあることに気づきます。たとえば抽象的芸術は、一切の恣意的な言語的表現に公然と叛旗をひるがえし、またうち捨てています。キャンバス上のマルーン(栗色)の色々な色調について議論することはできません。そしてウイトゲンシュタインが多分現代の物書きの中では一番明確に言ってるのですが、ウイトゲンシュタインのおかげで、私達は、言語に真理を委ねることなどできないといわんばかりのギリギリのところまで追い詰められているのです。ことば(speech)というのはある種、無限の後退です。言葉(words)というのは実は別な言葉に言及するだけなのです。もし、この発見を極限までたどる勇気、真実沈黙する勇気をもっているのであれば、私達一人一人にとって、これは解放の発見です。

そうすることができれば、私達の最初のご褒美の一つは、私達の本質的な調和、祈りの中で全心を込めて意識をはりつめていることによって見出す調和です。そしてそのはりつめられた意識は、いかなる思考、言葉あるいは想像力をもってしても成し遂げることのできないほど深淵なもの、リアル(現実的)なものなのです。命を、自分自身の命という賜物を喜ぶ完全な(whole)人とは、自分自身を一つの統一体として享受することができる人なのです。「主よ、我汝に感謝す。我が存在の奇すしき御業を」(出典不詳のため私訳。多分詩篇139:14)と詩篇作者は歌っています。

瞑想における私達の課題は、私達の統一を回復させ、そして散逸させられた私達の部分を、私達の存在の中心に対してその本来の調和のとれた場所に戻すことです。私達の意識が、沈黙の中で、本当にその中心に対して目覚める時、ある一つの力が解き放たれます。それは命の力、聖霊の力です。その力の中で私達は新たなるものとされ、再び結び合わされ、再生されるのです。「聖霊と一つにされている時、新しい世界が開かれるのです」(これまた出典不詳につき私訳。多分2コリント5:17。ただ、私の手もとの英語聖書、日本語聖書はいずれも「聖霊」をキリストと訳し、「世界」を「創造」あるいは「創造された者」と訳している)と聖パウロが言いました。マントラは一直線にこの中心へと連れて行ってくれるのです。

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