第九講話 個人としての調和の実現に向けて パート2

 

この前のお話の中で、現代人は、本来の自分自身に立ち戻るための手段として、言語がいかに不十分なものであるかということをますます意識するようになっているということを申しました。これは反理知主義だということではまったくありません。言語が人間間の基本的なコミュニケーションの道具ではないと言ってるのではないのです。そういうことを言ってるとすればこのテープ自体がアナクロニズムということになるでしょう。言語は、究極のコミュニオン(霊的交わり)へと私たちを導き入れる事はできないかもしれない、しかし言語は、私たちが意識という息を初めて吸う時の空気なのです。言語によって私たちの意識は広がりをもち、そして沈黙へと導き入れられます。しかし私たちは沈黙の中で、そして沈黙を通してのみ完全な意識にいたるのです。

 

少し抽象的になりましたので、一例を上げます。個人としての調和という考えに戻りましょう。一つの考えとして、私たちはそれについて言語で語らざるを得ません。言語は単語を用います。単語には意味がありますが、その意味というのは、その範囲をこえる何か他のものは意味しないという一つの広がりのことです。だから個人としての調和について語るためには、分析をし、識別をし、切り離さなければなりません。個人としての調和によって、私は統合、すなわち頭と心の、肉体と霊魂の完全な協働を意味しています。しかし、こういうものをこんなふうに、別個のものとして語っているということは、まるでそれらがお互いから独立して働くのだと言ってることにならないでしょうか。もちろん皆さんも私も、これらのものがバラバラに働くのではなく、全体のために働いているのだということを知っています。

 

もし何かうれしい知らせを聞けば、私はその喜びを体の中で感じ、頭の中でそれを知り、そしてそれが私の霊魂を広げてくれます。こういうことが全部起こるのです。そのすべてが私の反応、私自身に起こっている事への私の関与なのです。私の体が私の頭に何かを言っている事ではありませんし、また、私の頭がボディ・ランゲージを使って私に何かを伝えているということでもありません。私は全体として一個の人間であり、全体として反応しているのです。(1コリ12:12-26参照)

 

私たちは自分がこういう全人(訳注:whole personすなわち「全人教育」の全人)であること、この調和であることを知ってはいますが、にもかかわらず、私たちはそれを知ってはいないのです。なぜならば、私たちはまだ、十分な意識をもっていないからです。たぶんこんなふうにいえるでしょう。私たちの存在の中心において、完璧な喜びと自由の中で生きているあの意識の調和は、未だ拡大しておらず、私たちの存在の隅々にまで広がってはいないのだと。そうさせてやるためには、偏狭な自意識的思考や、もったいぶった言語という障害物を取り除かなければならないのです。言い換えれば、沈黙しなければならないのです。

 

もし人間が自分のことを本当に肉体−精神−霊魂として、つまりこの三者の調和として知っているとすれば、当然その知識を自分の全存在の隅々にまで完全に意識させていくことでしょう。しかし現代人は自分の霊魂についての知識を失ってしまっていて、霊魂を精神と混同してしまっています。その結果、現代人は、本来ならば、あの創造的な沈黙の祈りの中へと導き入れてくれるはずの、被造物としてのバランスと釣り合いの感覚を失ってしまっているのです。霊魂についての意識を回復して初めて私たちの存在という理性の謎がわかり始めるのです。私たちは肉体という一つの極限と、精神という一つの極限が単に共存しているということではないのです。私たちの存在の内部には、存在の中心には統一という原理があります、そして私たちの中にある神の似姿というのはこれ、すなわち霊魂のことなのです。

 

14世紀に「不可知の雲」を書いた著者の言葉を聞きましょう。「(瞑想という)この営みは大いなる静寂、魂と肉体の統合し、そして純粋にもつことが絶対に必要である、と言う時、私は真理を語っている。神が合わされたもの、すなわち肉体と霊魂を私が分けることを神が禁じておられる。」私たちの存在のこの基本的な調和を完全に意識する方法は沈黙することです。そして瞑想するということは沈黙することなのです。沈黙していると、私たちの本質、私たちの中心の調和が、いわば、花開き、私たちの存在のすべての部分、分子へと広がっていくのです。「雲」はそのことをとても魅力的に書いています。「神の恵みが人を瞑想へと引き入れると、それがその人を肉体的にも美しく変貌させるようだ。だから生まれつき不器量な人も今や変えられ、みめ麗しく見える。」

 

私たちの存在の隅々にまで基本的な調和が浸透するということは、イエスの御霊の祈りが心の中に湧き上がり心からあふれ、体の隅々にまであふれ出ていくということです。これはイエスが私たちに聖霊をおくってくださったことによって私たちに与えられている驚くべき贈り物なのです。しかしイエスはそれを私たちに押しつけることはいたしません。私たちがそれに気づき受けとめなければならないのです。そしてそれは、要領よく頭をつかったり、自己分析的になってもできないのです。そうではなくて、沈黙することによって、単純になることによってできるようになるのです。この贈り物はすでに与えられています。だからその無限の寛大さに対して心を開きさえすればよいのです。マントラが混じりっけのない単純さの中で私たちの心を開いてくれます。「あなた達は知らないのですか」と聖パウロはコリントの人々に書き送っています、「あなた達の肉体は内住する聖霊の宮であり、そして聖霊は神のあなた達への贈り物であるということを」(1コリ6:19 出張先で手元に聖書がないので英文より私訳)。瞑想は、単純にそれを知る私たちのやり方なのです。